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「天龍源一郎」がプロレスラーになった理由 力士時代に起こったお家騒動とは

天龍源一郎は、70年代から90年代にかけて全日本プロレスで活躍した元プロレスラー。離脱後に数度の移籍を経てフリーとなり、65歳(2015年)で現役を引退をするまで第一線で活躍した人物である。

また、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の両者からピンフォール勝ちをした唯一の日本人プロレスラーでもあり、これらのことから「生ける伝説」「ミスター・プロレス」といった異名を持つ。

天龍は元々力士として活躍しており、1964年に13歳で初土俵を踏み、1976年に26歳で引退、その後プロレスへ転向を果たした。地元の福井では、「未来の横綱」「大鵬の二所ノ関(にしょのせき)部屋に入門」などと新聞で報じられ、福井放送社長から餞別もあったという。

「大鵬二世」と称されていたというが、実際は二所ノ関部屋に入ればみんなそう呼ばれていたようであり、天龍自身は当初己惚れていたものの、同じように呼ばれていたのが他に6人いたという。

天龍という名前はこの力士時代の四股名に由来するが、通常四股名は同部屋で受け継がれるものだったにも関わらず、彼の四股名はライバル部屋であった名門・出羽海(でわのうみ)部屋のものだった。

出羽海部屋にいたいわゆる先代は、大正から昭和初期にかけて活躍した天竜三郎という人物だった。彼は1932年、力士の待遇改善を大日本相撲協会に要求後、交渉が決裂して協会からの大量離脱が発生した春秋園事件の中心人物でもあった。

二所ノ関親方は、そんな気骨に溢れた天竜三郎の姿を、当時まだ嶋田少年であった天龍と重ね、命名の許しを得るために幾度も本人のもとへ訪れ、ようやく許可が下りた。少年が初めて先代と対面した際には、「間違っても俺の名前を汚すな」と言われたという。しかし、当時の天龍少年はその重みを十分には理解しきれてなかったようだ。

天龍として活躍を展開していた彼だったが、1975年に大事件が発生する。二所ノ関親方(大関佐賀ノ花)が急逝し誰が部屋を継ぐのかということが話し合われ、独立していた大鵬が戻るのか、それとも押尾川親方(元大関大麒麟)が戻って来るのかが話し合われていた。

そんな中、同部屋の幕内力士・金剛が引退して、しかも親方の娘の婿になる形で継ぐことが決まってしまった。このことに押尾川親方は猛反発し、決起を宣言し、天龍を含め賛同者10数名とともに瑞輪寺に立て籠もる事態に発展した。

その後、秋場所終了後、理事長より分家独立が認められることとなったが、6人という人数制限を命じられてしまい、結局天龍はその中に加わることができず、二所ノ関部屋に留まることとなった。だが、決起に参加をした、いわば裏切り者という扱いから嫌がらせも受けており、天龍は孤立した状態にあった。

転機となったのは、記者の森岡理右(もりおかりう:現・筑波大学名誉教授)との出会いだった。大鵬や大麒麟とも親しくする森岡の姿を知っていた彼は、筑波の巡業時にたまたま電車内で森岡と会い、お家騒動と今自分の置かれた部屋での居づらさを漏らした。

そこで、森岡から言われたのが「プロレスに行けばいいじゃん!」という言葉だった。

森岡はジャイアント馬場にも顔が利く人物だったため、あれよあれよという間に話は進み、ついに全日本プロレスへ入団することが決定した。当時、プロレス人気は相撲ほどに高くなく、地元からの猛反対もあった。

天龍自身、この時プロレス技を一つも知らなかったという。だが、この転向が無ければ、ミスター・プロレス天龍源一郎が現れることはなかったことは確かだった。

【参考記事・文献】
https://dot.asahi.com/articles/-/63683?page=1
https://reskill.nikkei.com/article/DGXZZO38454400T01C18A2000000/
https://www.bbm-japan.com/article/detail/7505
https://number.bunshun.jp/articles/-/824790

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【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用