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韓国で発生した軍による民主化運動の鎮圧「光州事件」

光州事件は、1980年5月に韓国の光州市(現在の光州広域市)を中心にして起こった民主化蜂起である。韓国の民主化を語る上では欠くことのできない事件であり、また韓国において軍部により自国民が大量虐殺された事件の一つとしても知られている。

日本からの巨額な経済協力金によって「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を起こしていた当時の韓国は、朴正煕(パクチョンヒ)大統領による20年近くに及ぶ軍事独裁政権下にあった。光州市は、このころから既に学生運動や農民運動などの拠点となっていたが、朴大統領はそうした民主化デモなどに対して武力での威嚇や鎮圧をし、ますます民衆の不満をもたらすことになる。

そんな朴政権は、1979年に突如として幕を下ろすこととなる。10月26日、長きに渡り朴の側近としてその権力を支えてきたKCIA部長・金載圭(キムジェギュ)が、彼を射殺するという通称10・26事件が発生した。

金はのちに死刑となり、臨時として崔圭夏(チェギュハ)が大統領代理となった。朴射殺後は、崔が逮捕されていた運動からを釈放、さらに朴政権下で抑えられていた金大中(キムデジュン)や金泳三(キムヨンサム)といった民主派の政治家が復権されるなど、民主化運動が一層強まることとなった。

「ソウルの春」と呼ばれ、強まった民主化の波であったが、直後に一大事件が巻き起こる。翌年1980年5月16日、5万人もの学生・市民で膨れ上がったデモにより、光州でも大々的な集会が開かれていた。

だが、この時に軍の実権を握った全斗煥(チョンドゥファン)将軍が17日、済州島を含む全国に戒厳令を拡大し、さらに18日には金大中らを逮捕あるいは自宅軟禁にして活動を封じられてしまった。

政治活動の停止、言論・出版・放送の事前検閲など全による新たな軍部独裁政治が開始された。このことは、五・一七クーデターなどと呼ばれている。

5月18日、ついに光州にてデモに参加していた人々に対して軍が介入し、鎮圧のため部隊が暴力的手段を用いることになり、これによって抗議デモも激化していくこととなっていった。これが、光州事件の始まりとなる。

空挺旅団の進駐や機動隊と学生たちとの衝突、部隊による学生たちへの殴打や剥ぎ取り、18日のうちにおよそ400人の学生が連行され、80人が負傷した。翌日19日には、さらに激昂した2万人もの学生や市民たちの角材、鉄パイプ、火炎瓶などを使用した攻撃が繰り広げられ、21日にはMBC放送の建物が民衆により焼き討ち、また空挺部隊の一斉射撃で駅前広場は鮮血に染まるまでに発展。

5月27日、とうとう光州事件は幕を下ろすこととなったが、結果としては政府軍による鎮圧という悲劇的な幕引きであった。全斗煥政権の下、この光州事件はメディアの検閲や遮断などによって隠蔽されようとしていた。

だが、民衆による抗議やデモが鎮まったわけではなく、この頃ソウルオリンピックを控えていた事情から、国際社会から批判を受けるような大規模なデモが起こっては困るという事情から、結果として国民の選挙による大統領選出、金大中などの反体制活動家の釈放と復権をすることとなり、結果として韓国に民主化がもたらされることとなった。

のちに、全はクーデターおよび光州事件の罪を問われ死刑判決となった。

政府発表によれば、この光州事件においては144人もの犠牲者がいたとされているとされていたが、2001年に韓国政府が確認した光州事件に関するデータでは、民間人168人、軍人23人、警察4人、負傷者4782人、行方不明406人に達する犠牲者が出たと言われている。

【参考記事・文献】
https://history-go.com/archives/16422#index_id2
https://www.y-history.net/appendix/wh1703-053.html
https://news.yahoo.co.jp/articles/4d175b9c1fcb4e99faa7c6ac74e59690c2cb9b40
https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/19/kwangju-35th-aniv_n_7311100.html
https://x.gd/mUBRX

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【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用