爆弾三勇士は、1932年の第一次上海事変にて戦死した3人の一等兵たちの呼称である。肉弾三勇士とも呼ばれており、メディアを通して語られた彼らの行動が日本国民の戦意高揚に大きく影響を与えることになったとも言われている。久留米市の山川招魂社には、この三勇士の慰霊碑が建てられている。
満州事変が始まった翌年のこと。日本軍に対して徹底抗戦の構えを見せていた国民党軍が、日本軍の進路であった上海郊外の廟行鎮に陣地を構えていた。日本軍の突撃を防ぐために、塹壕の前に鉄条網を張っていたほどに強固な守りを築き上げていた。敵軍を舐めていた日本軍は軽装かつ少量の重火器しか持っておらず、鉄条網に攻め入るどころか近付くことすら困難な状況下であった。
そこで志願を名乗り出たのが、工兵第18大隊であった江下武二(えしたたけじ)、北川丞(きたがわすすむ)、作江伊之助(さくえ いのすけ)という3人の若者であった。彼らは、点火した爆弾を抱えながら鉄条網に突撃し、なんと自らの爆散とともに敵陣地の鉄条網を爆破破壊した。
この3人の行動は、「これぞ真の肉弾!」「世界比ありやこの気魄」「忠烈まさに粉骨砕身」「壮烈!決死隊以上」など、当時の国内メディアで大々的に報じられた。この満21歳という無名の若者たちの行ないは、メディアを通じて国民を感動させ、三勇士と称され湧き立たせることとなった。
軍神とも称された三勇士に対しては、その後歌が募集されてラジオで流されたり、映画や明治座などで芝居も演じられ、学校の教科書にまで掲載されるようになった。玩具なども登場、グリコのおまけとして小さな文鎮が作られたこともあり、もはやアイドル的な扱いがなされていた。
軍隊や軍人に対する寄付金である恤兵(じゅっぺい)は、もともと個人宛として取り扱うことはしていなかったものの、彼ら3人に対する義援金があまりにも殺到してしまったために、国民感情を考慮して三勇士のものとして取り扱ったと言われている。さらに、彼らの母親たちは大阪や京都、東京に招待され、陸軍省に招かれて当時の荒木貞夫陸軍大臣から先の義援金が手渡された。
さて、自らの身を挺して突破・爆散をした三勇士であるが、実は実際の事情は異なっていたと言われている。
メディアでの報道はかなり脚色されていたといわれている。
自分の体に爆弾を結び付けていたということはなく、爆弾を棒状につないで青竹で巻いた筒を抱えての突進であり、また自らの死を持っての志願という点についても誤りで、そもそもは鉄条網にそれを差し込んで帰還することが任務であったという。
考えてみれば、爆破対象は移動する物や人では全く無かったため、自爆をもって破壊というのはどう見ても奇妙なのだ。この程度のことで、上官がわざわざ自爆の命令を下すという可能性もきわめて低かったと言える。
一説には、当初の作戦で用いられていた導火線の長さが1mであったにもかかわらず、なぜか3人の持った爆弾の導火線が半分程度の長さしかなかったと言われ、これが帰還に間に合わず爆死するに至ってしまったのではないかと推測されている。
また別の説では、上官に突入を命じられて突入していったものの、途中で転倒してしまうというアクシデントがあり、そこから戻ることもできずに突入していったというものもある。
いずれにせよ、彼らは我が身を捨てる意思を持って任務を行なっていたわけではなかったようだ。
言うなれば、彼らの死は美談として国民を酔わせ、そして戦争に対する熱狂を高めるための物語として利用されていたと言える。彼ら三勇士のブームが作られたことによって、日本は「命を捨てて国に尽くす」という特殊な忠誠の形を作り上げてしまったと言えるのではないか。
3名の死は彼らが本当に望んでいた結果だったのだろうか、疑問が残る。
【参考記事・文献】
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/609845/
https://daihonnei.com/three-warriors
https://bunshun.jp/articles/-/36355
https://x.gd/jvc02
https://x.gd/ohSw3
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画像 ウィキペディアより引用