稲川淳二という名前を聞けば、誰しも真っ先に思い浮かべるのは”怪談の語り手”としての彼だろう。それまでの怪談噺の話術とは異なり、早口で畳みかけるような語りに特徴的な擬音を駆使するという独自のスタイルを形作り、近年の怪談ブームにも多大な影響を及ぼした人物だ。
1980年代に語られた『生き人形』はこんにちでも伝説となっているほどの反響を呼び、こんにちに至るまでおよそ30年に渡り怪談ツアー公演を精力的に行うなど、怪談とは切っても切れない存在となっている。
しかしながら、怪談の語り手としての地位を確立する以前、彼は全くと言って良いほど別の活躍を見せていた。
まず、稲川淳二の本業は一級建築士の資格を有する工業デザイナーであるということだ。彼は幼い頃から怪談好きであったが、それと同時に戦後直後の”物”がない時代の生まれであったことが影響して、アメ車や建物に強い憧れを抱いていたという。
彼が手掛けたものには、新幹線の車内で使用されている検札機、バーコードリーダー、車のテストボディなどいくつもあり、中でも自分一人で作り上げた自然石の「車止め」は1996年にグッドデザイン賞を受賞。
一見すると芸能界とは無縁のようにも思えるが、実は学生時代はよく絨毯バー(履き物を脱ぐ酒場)などを借りてパーティをたびたび開いて、そこに芸能人なども出入りしていたそうだ。当時は「コンパ屋」と称され、かなり顔が広かったとのこと。
また、彼は図面を引くだけでなく絵を描くのが好きだったことからレタリングも得意としており、その能力を生かした舞台美術を始めるようになった。そのうち舞台に出るようにもなっていき、次第に劇団から頼まれてマネージャー業も手掛け、1970年代には「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めるなど、芸能活動をこなしていくようになった。
そして、彼にとって象徴的なものと言えば、『オレたちひょうきん族』での出演を欠かすことはできない。彼は、当時の歌番組『ザ・ベストテン』のパロディである「ひょうきんベストテン」にて歌手役として出演、そこでメチャクチャな扱うをされて「悲惨だな悲惨だなー」と叫び、ボロボロの姿で最後には「いかがでしょーか、喜んでいただけましたか?」というオチで締め括られるという芸風で知られるようになった。
この「ひょうきん族」では、大量の蛇の中を泳がされたり、ワニの歯を磨いたり、トラにかみつかれたり、人間魚拓をされたりなど、かなり過激なことをさせられていた。
そうした活躍がビートたけしに気に入られ、のちに『スーパージョッキー』にレギュラー出演となるが、ここで登場したのがかの「熱湯風呂」だ。要するに、稲川淳二はダチョウ倶楽部や出川哲郎といった「リアクション芸人」と称される人々のパイオニア的存在だったのである。
こうしたバラエティでの出演と併せて、彼は本業のデザイナーをこなしつつ、徐々に怪談の語り手として活動の場を広めていくことになっていった。
稲川は、数々の霊体験もさることながら、人生で5回も死体を発見したり、日航機墜落事故を逃れたりといった、不思議な能力が備わっているような逸話も多く持っている。過酷な修行の末に強力な霊感や超能力が開花・強化されるという話はよく言われるが、もしかすると、彼のこなしてきた過激なリアクション芸の数々が、そうした能力を開花させる修行のような役割を果たしたのかもしれない。
【参考記事・文献】
「実は私、工業デザイナーなんです」稲川淳二(77)コンパ屋と呼ばれた学生時代経て活躍も
https://chanto.jp.net/articles/-/1005588?display=b
「稲川淳二」のもうひとつの顔 元祖“リアクション芸人”だった頃を知っていますか
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/08190715/?all=1#goog_rewarded
稲川淳二「怪談ナイト」30年。“元祖リアクション芸人”はなぜ怪談をはじめたのか?
https://news.livedoor.com/article/detail/22758013/
稲川淳二の人生を左右した55歳での選択 前立腺がん、次男の死を乗り越え怪談を続ける理由
https://encount.press/archives/334804/
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【アトラスラジオ関連動画】
香川県高松市で開催された稲川淳二さんの怪談ライブで起きた奇妙な出来事、和歌山市に出現したうずらの幽霊
【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用