日本人なら誰でも知っている法隆寺は、別名は斑鳩寺とも呼ばれており、世界最古の木造建築物としてユネスコ世界文化遺産に指定されている。

 この法隆寺に不気味な風聞があるのはご存知だろうか。実は法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めるための寺であり、その成立背景には御霊信仰があったとされているのだ。

 一応歴史上では推古天皇と聖徳太子が父親である用明天皇の病からの回復を祈るために607年に建立したとされているが、実際のところはどうであろうか。

 聖徳太子怨霊説は梅原猛氏の仮説であり、氏の著書である『隠された十字架』(1972年 新潮社)の中で披露され、一般的に広く知られるようになった。

 確かに我が国には御霊信仰というものがあり、政治的な敗者などを寺社仏閣に神仏として祀り上げることにより、その怨霊による災難を防ぐという考え方が実践されてきた。代表的な例をあげると、藤原氏との政争に敗れ流罪になった菅原道真を大宰府の天満宮に祀ったり、讃岐に流された崇徳上皇を白峰宮に祀ったりしたのが代表的だ。

 この考え方は近代においても継続しており、信長の御霊を慰撫した建勲神社なども明治時代になってから建立されている。いずれも朝廷そのものや、体制側の有力者と対立し非業の最期を遂げた人物ばかりである。




 やはり、法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めた寺なのであろうか。実は法隆寺には七不思議がで伝承されており、聖徳太子御霊説を唱える人々の根拠になっている。その七不思議を紹介してみよう。

1、五重塔に四本の鎌がささっている。
2、因可池のカエルはすべて片目である。
3、莫大な宝が収められている三つの伏蔵がある。
4、なぜか伽藍に蜘蛛が巣をかけない。
5、南大門に魚の形をした鯛石がある。
6、夢殿の礼盤の裏がいつも湿っている。
7、雨が降っても地面に雨だれによる穴があかない。

 いかがであろうか。民俗学の知識があれば容易に説明がつく事例も多々あり、この七不思議が聖徳太子怨霊説を強化するとは思えない。また、御霊信仰のセオリーでは体制に逆らって非業の死をとげた人物が怨霊となり、御霊信仰の対象として祀られるのだが、聖徳太子は非業の最期を遂げていない。

 但しこれには気になるポイントがある。なんと聖徳太子とその妻の死亡した日が一日違いであるという部分だ。これは太子夫妻が暗殺されたか、なんらかの事故で亡くなった可能性があるのではないだろうか。

 また、蘇我入鹿は聖徳太子の死後、その一族を皆殺しにしており、一族の長であった聖徳太子そのものが怨霊化する動機は十分にある。反論として明らかに殺された太子の息子である山背大兄王が怨霊化しないのは何故かという指摘があるが、法隆寺は聖徳太子とその一族の怨霊をまとめて慰撫していると解釈すれば納得がいく。

 朝廷の権力者であった蘇我氏に反抗して暗殺された一族ならば、怨霊化してもなんら不思議ではない。

 また、明治期まで封印されていた法隆寺の救世観音は見ると祟りがあると言われてきたが、この観音そのものに怨霊を封じ込めたと当時の人々が考えたからではないだろか。

 聖徳太子の怨霊は今はどこに漂っているのであろうか。ミステリーは続く。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)


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