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大首絵は視野狭窄の表れ?「東洲斎写楽」の浮世絵に見る謎

江戸時代、後期に活躍した浮世絵師の東洲斎写楽と言えば、歌舞伎役者の半身を描いた「大首絵」に代表される、それまでにはなかった迫力のある大胆な浮世絵を描き、わずか10ヵ月で姿を消した謎の絵師として知られている。

写楽については、その正体が研究分野として現在もなお注目され続けており、葛飾北斎や歌川豊国、喜多川歌麿など多くの説が唱えられてきた。現在、最も有力視されているのは、阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者であった斉藤十郎兵衛だったのではないかという説だ。

しかし、写楽にまつわる謎はもちろん正体以外にもいくつもある。その中の一つに、写楽の絵にまつわるものがある。

写楽は、良くも悪くもその描いた相手の顔を強いデフォルメで描いているのが特徴的であった。当時は、そのせいもあってか評判はあまり良いものではなかったようであるが、今日では彼が感じ取った、ありのままを表現する情熱的描写であるとの形で高く評価されている。

現に、写楽が消えた後には、彼の手法が広く後進の絵師たちに影響を及ぼしたと言われている。だが問題は、その大首絵などを生み出した原因は何だったのかと言うものにある。

また、写楽の浮世絵にはもう一つの謎がある。彼は、第一期・第二期と称される絵柄の急激な変化が確認されている。非常に強い迫力に満ちていた第一期と異なり、第二期はあまりにも大人しく第一期のような熱量が失われているかのように見える。

このことから、写楽は複数人による筆名でそれぞれ別人が描いたのではないかという説も挙げられている。だが、これが一人の人間によるものであったとすると、この急激な変化の原因は一体何だったのだろうか。

ある説によれば、写楽の浮世絵は精神分析などで言われる「絵画療法」として解釈が可能であると言われている。東洲斎写楽が世に出た頃、写楽自身は、なんらかの事情によって多大なる苦悩の中をさまよっており、その痕跡は第一期の大首絵に強く反映される形となって現れているという。

心理学においては、課題や苦悩に向き合おうとする際、人は目の前の事柄にしか注意を向けることができないことがほとんどだ。一種の視野狭窄に陥るのであるが、写楽の大首絵はそのような状態の反映であったのではないかと考えられている。

絵画療法においては、一般にその初期の方が胸を打つほど迫力に満ちた質の高いものが多いと言われている。質の高さと言うのはこの場合、芸術的な評価ではなく、創造性などのことを指す。

また、写楽の大首絵の評価の中に、奇妙な歪みが存在しているとの点も見逃せない。例えば、『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』を見ると、顔のサイズに比べて手が小さく、また手のバランスが悪く歪(いびつ)であることがわかる。

これにより、写楽は絵の素人なのではないかとする意見もあるが、これは意図的にわざと歪に描いたのではないかと考えられている。

この歪んでいるという部分だけを見ると、まるで写楽は不思議の国のアリス症候群により、実際に人間がそのように見えてしまっていたのではないかとも思えるが、ある種それは狂気と現実の間を辿っていたという軌跡の証だったとも言えるだろう。

結果として、写楽の絵柄が変貌してしまったのは、その苦悩に対する戦いの終結を意味していたのではないか。つまり、およそ10ヵ月の間に、彼の”治療”は完結し、そして彼は消えて行った。

興味深いことに、絵画療法においては描かれる絵画の画用紙のサイズが徐々に小さくなっていく現象が良く見られると言う。写楽も大首絵に用いられた大判サイズから見てみると、そのサイズが徐々に縮小されていっていることがわかる。

大首が全身図になり、さらに背景も描かれていくという過程は、まさしく治療の終焉を意味しているとでも言えるだろう。

もちろん、当時絵画療法というものが存在していたというわけではなく、彼が苦悩と戦うために用いたのがたまたま絵であったということになるだろう。能役者という固定された自身のポジションが、苦悩の原因であったのか、それともそれ以外の外部的要因が影響したものであるかは不明である。

少なくとも、この説に則れば、彼は「とにかく描きたかった」からという熱い好奇心から描いたというより、自身の生の表現として「描かねばならなかった」事態にあったとも言えるかもしれない。

【参考記事・文献】
秋田巌『写楽の深層』

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【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用