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謎の浮世絵師「東洲斎写楽」はなぜ出現したのか?

東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』『初代市川蝦蔵の竹村定之進』などの作品で知られる江戸時代中期の浮世絵師である。

寛政6年から翌7年(1794~95)の中の、わずか10ヶ月という短い期間におよそ140余りの浮世絵を残し忽然と姿を消した謎の絵師として知られている。

出自や生没そしてその正体について今日までに様々な研究がなされている。葛飾北斎、喜多川歌麿、歌川豊国など同業者の別名であったという説から、十返舎一九、山東京伝、無名のアマチュア、果てはニコラ・ブルバキ(架空の数学者で正体は複数人の数学者による共同ネーム)のようなものだったのではないか、など多様に唱えられてきた。

しかし、現在「写楽の正体」は阿波の能役者斎藤十郎兵衛(じゅうろべえ)であったということでほぼ決着がついているようだ。巷では、斎藤十郎兵衛の名前の「さい・とう・じゅう」を並べ替えることで「とう・しゅう・さい」となるという言語遊戯的解釈も散見されているが、もちろんそんな単純な根拠ではない。

写楽の活動時期からおよそ50年後に発売された出版物に、江戸時代の考証家斎藤月岑(げっしん)の著した『増補浮世絵類考』(1844)がある。この中の写楽斎の項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也。」と記述されているのだ。月岑は、『江戸名所図会』といった現代でいえばガイドブックの著述も行なっていた人物でもあり、取材力は申し分なかったであろうことから充分に信頼に足るものと考えられる。




ただし、この時点ではまだ「斎藤十郎兵衛がそもそも実在したのか」という疑問が残っていた。結果的に、平成9年に埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳にて、文政3(1820)年3月7日に斎藤十郎兵衛が58歳で死去し千住にて火葬された、という記述が発見された。これにより、斎藤十郎兵衛の実在が確定的となり、同時に東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛であったのは間違いないであろうということとなった。

ところで、なぜ十郎兵衛は突如として浮世絵を描き始めたのか。写楽の活動した当時、幕府公認の歌舞伎劇場三座がすべて破産しており、興行の危機に陥っていた非常事態の時期であったといわれる。このことは能役者である十郎兵衛にとっても大きな影響を及ぼしたであろう。

人間は、ある一時期に無意識のイメージ生産力が高まり、がむしゃらに芸術的イメージや言語が湧き出て荒れ狂うことがあると言われる。十郎兵衛にとっての写楽は、芸能の危機に巻き込まれるさなか、自己を破綻させまいとする無意識の抵抗であったとも推測できる。

姿を消したのは絵の不評のためではなく、その爆発的な狂気が落ち着き収束したか、あるいは自分の行く末に覚悟を見出した結果なのかもしれない。

【参考記事・文献】
・山口敏太郎『日本史の都市伝説』
・秋田巌『写楽の深層』

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(にぅま 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用