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本能寺で信長は逃げ延びた?!「織田信長」生存説

織田信長は、戦国三英傑の一人とも言われる戦国を代表する武将である。室町幕府の将軍足利義明を追放し事実上滅亡させ政権を握り、以後天下統一に向けて邁進するも本能寺の変で死亡したと言われている。

本能寺の変は、天正10(1582)年に明智光秀の謀反によって京都本能寺を包囲されたことを知った信長が、火を放ち自害したと言われる事件である。実はこの時、信長は自害せずに生き残ったのではないかという説が存在している。

織田信長生存説が浮上した最大の理由は、信長自身の死体が発見されていないことだ。敵将の首を討ちとることが勝利の証でもあった当時、信長の首がないことは「生き延びたのではないか」との憶測と同時に、「今後反撃されるのではないか」という恐怖心をもたらすものに等しかった。明智光秀は、このことに悩まされたとも言われている。

生存説として挙げられるものには主に以下のようなものがある。よく言われるのは本能寺の地下通路から逃げたという説であり、この脱出先はイエズス会により京都に建てられた日本風教会堂である南蛮寺につながっていたと言われている。ほかにも、加賀藩の二代藩主前田利長の正室が信長の四女であったという縁をたどり、前田家に庇護され隠居したという説もある。中には、船でフィリピンまで逃げ、イエズス会の協力を経てヨーロッパへ渡ったというような説まである。




一方で生存説ではないものの、死体が見つかっていないのは本能寺から運び出されたためであるという説もある。静岡県の西山本門寺では、信長の首が本堂奥の大柊のもとに埋められているという口伝が残っており、「信長公の首塚」と呼ばれるものが存在する。また、京都の阿弥陀寺では、阿弥陀寺を開いた清玉(せいぎょく)上人の手によって遺灰や遺骨が持ち帰られ弔われたという伝承があり、大正時代に勅使から公認された信長の墓「織田信長公本廟」も存在する。

信長生存説は、特に有力とされる説がないため、推測に留まっている部分が多いのが現状だ。しかし、先に述べた「生き延びたのではないか」という心理を呼び起こすことそれ自体に信長の意図があったのではないだろうか。

歴史家徳富蘇峰は自著『近世日本国民史』の中で、「彼は此の一大事の瀬戸際においても……我が死屍の始末を附けた。」と書いた。死体あるいは墓が見つからないという状態は、歴史的に様々な偉人などに見られ、その多くが「カリスマ」性を高揚させる要因にもなっている。

信長は、自分の死体の始末を自ら行なったことでカリスマの保全に見事成功したとも考えられる。

【参考記事・文献】
・小室直樹『信長の呪い─かくて、近代は生まれた』
・信長公の首塚と足跡
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/kankou/llti2b00000018hl.html
・織田信長が眠る寺・阿弥陀寺
https://kyototwo.jp/post/attractions/10081/
・織田信長 5つの生存説|実は信長は本能寺の変後も生きていた!?
https://rekishimystery.com/nobunaga/

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(にぅま 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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