事件

将門を討ちった戦国大名の祖「俵藤太」の大百足退治伝説

俵藤太(たわらのとうた)は、藤原北家の傍流で下野国(現在の栃木県)に住んでいた武士「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)の異名である。関東八ヶ国の国府を攻め落とし、朝廷に反乱を起こした桓武平氏の武将である平将門を征伐し討ち取った人物としても知られている。

彼には、将門征伐の武勇と同時に妖怪退治の伝説が残されている。

ある日のこと、彼が近江国(現在の滋賀県)瀬田の唐橋を渡っていると、橋の中ほどに20丈、およそ60メートルにも及ぶ大蛇が横たわっていた。人々の往来を妨げる上、恐れて皆が困っているその中で、彼は平然とその大蛇を踏みつけて渡ってしまった。

その夜、彼のもとへ琵琶湖に棲む竜神一族の化身と称する姫君が訪れたが、その正体は唐橋に横たわっていた大蛇であった。大蛇は、彼の臆することのない勇敢さから、琵琶湖の竜神一族を苦しめる三上山の大百足(ムカデ)を退治して欲しいと懇願した。彼はこの大蛇の願いを聞き入れ、大百足退治へと向かった。

三上山に出向いた彼を待ち受けていたのは、実に山を7巻き半するほどの巨大な大百足であった。そのあまりの巨大ぶりに驚くも、彼は嵐のように弓を射続けた。しかし、百足の体は強靭で矢を跳ね返し、攻撃が全く効かない様子であった。

困った彼は、「人間の唾は魔物に対して毒になる」ことを思い出し、矢に自分の唾を付け、そして八幡神に一審の祈りを込めて矢を放った。そうして矢は見事大百足の眉間に突き刺さり、ついに大百足は息絶えることとなった。

彼はこの成果を竜神から称えられ、黄金の鎧と太刀、自在に食物の出る鍋、米の尽きない俵、どれだけ使っても無くならない絹、そして赤銅の撞鐘を贈られたという。この「米の尽きない俵」から、俵藤太という異名が生まれたという。のちに鐘は三井寺に寄進され、また瀬田の唐橋の近辺には彼ゆかりの史跡や品々が今も残されているという。

また、将門征伐はこの大百足退治のあとに行なわれたものであるとの話もある。伝承によると、彼は妹の桔梗前を将門の愛妾として潜入させ、こめかみが弱点であることを知ったことで影武者と本物を見破ることができたと言われている。別の伝説では、大百足退治の恩から竜神が彼を手助けし、将門の弱点を教えてもらったというものもあるという。

大百足の伝承は、一説に史実である将門征伐を反映して生み出されたものではないかとも考えられている。また、彼の領地であった栃木県には、日光山の神に与した猿丸太夫という人物が大百足に化けた赤城明神を討ったという、大百足退治に酷似した伝説が残されているという。

さらに、大蛇が横たわっていたという瀬田の唐橋は、平将門の乱において彼が将門の目に矢を命中させて落馬死させた場所であるとも言われている。こうした、猿丸太夫の大百足退治と将門の目を射抜いたという逸話が、俵藤太の大百足退治の伝説を形成したと言えるだろう。

俵藤太こと藤原秀郷は、文官が多かった藤原氏の中で、武家として藤原氏を発展させ、多くの戦国大名の祖ともなったと言われている。栃木県には、他にも百目鬼という妖怪を征伐したという彼の伝説も残されているほどであり、彼の功績をのちに伝えるために様々な伝説が生み出されたと考えられる。

【参考記事・文献】
山口敏太郎『怨霊と呪いの日本史』

俵藤太と大百足退治
https://rekishihyakka.jp/culturalheritages/o-s006-4/
藤原秀郷・大ムカデ退治の伝説【多くの戦国大名の祖】
https://kusanomido.com/study/history/japan/heian/33240/
「藤原秀郷」はどんな人物?史実と伝説のあいだで
https://www.bando-bushi.com/facts-and-legends

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【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用