あまが池は、現在の愛知県名古屋市西区にある武将・佐々成政の居城跡「比良城跡」の東から南北にのびる堤防、その西側に位置する池の名前である。現在は「蛇池」(じゃいけ)と呼ばれている池には、その名の通り古くから大蛇が棲んでいると伝えられ、恐れられていた。
伝説に寄ると、1555年、雨の降る1月中旬のころ、安食(あじき)村の又左衛門という男が、あまが池の堤で巨大な蛇が横たわっているのを目撃。大蛇はあまが池の方を向いていたが、又左衛門の気配を感じてか彼の方へ振り向き、恐ろしくなった彼は一目散に逃げ出したという。
彼の言によると、大蛇は一抱えするほどの胴回りで、鹿のような顔に星のように光る眼を持ち、手のひらほどの大きさの赤い舌を出していたという。この大蛇の噂は瞬く間に広まり、当時織田信長の居城となっていた近隣の清洲城(現清須市)の城下にまで大蛇の噂で持ちきりになったという。
この大蛇の噂は、当然ながら信長の耳にも届くこととなった。信長は又左衛門より詳しい話を聞き、「明日、池を蛇替(じゃが)えする」との触書を出すに至った。「蛇替え」とは、要するに池の水をかき上げて(全部抜いて)蛇を捕らえることであり、単なる興味や好奇心というものではなく、大蛇を恐れて人々の行き来が滞ることのほか、兵の行軍に支障をきたしてしまうことを防ぐための策であった。
当日、周辺住民の手を借りて大規模な作業が行なわれた。池の水が7割減ったところで(一説にはこの時から水が減らなくなったとも言われている)、しびれを切らした信長はなんと脇差しを口に咥え、自ら池の中に飛び込んでいった。ところが、満を持して飛び込んだものの、結局池の中から大蛇は発見できず、家来にも探させたが結果は同様。
よってこの池に蛇はいないと判断し、信長一行は清洲城へ引きあげていったという。
因みに、この信長の大蛇伝説にはその続きの話も共に語られることが多い。冒頭でも述べた通り、あまが池は佐々成政の比良城付近にある池である。
この蛇替えの時、成政は体調不良を訴え参加しなかったそうであるが、実は仮病であったのだそうだ。信長に忠実であったとされる成政は密かに対抗意識を燃やしており、信長が蛇替えのあとに比良城へ立ち寄ることを見越して、その際に討とうと考えたのだという。
成政はこのことを家臣へ告げて相談をすると、家老の一人であった井口太郎左衛門が驚くべき提案をした。それは太郎左衛門が信長を水辺へ案内し、隙を見て信長を刺してそのまま川へ道連れにして飛び込むという捨て身の暗殺計画であった。
だが、結局信長は比良城へ立ち寄ることなく清洲城へ帰っていったため、この暗殺計画が実行されることは無かったという。『信長公記』にて著者の太田牛一は、「一城の主たる者、いかなる時も用心していなければならない」との旨を記しているが、このことは信長の危機管理の高さを讃える彼の信長に対する心酔ぶりを表すものとも捉えられている。
【参考記事・文献】
麒麟がくる【あまが池】信長が池の水ぜんぶ抜く!
https://samurai-hi.com/kiringakuru-amagaike-23001
あまが池の大蛇と成政~戦国初心者にも超わかる信長公記20話
https://bushoojapan.com/bushoo/shin/2019/03/16/121950#i-2
信長が飛び込んだ蛇池は、名古屋市西区比良に今でもちゃんとあります
https://plus.chunichi.co.jp/blog/mizuno/article/233/1012/
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【文 ZENMAI】
画像 ウィキペディアより引用