竹内文書、九鬼(くかみ)文書、秀真伝(ほつまつたえ)など、古史古伝と称されるものが、これまでに多く”発見”され注目された。
古史古伝とは、作家の佐治芳彦によると「記紀とは系統を異にした」古文書であり、また「古代の苛烈な権力闘争」において「敗者側からつくられた」歴史であるという。そのため、古史古伝は時の権力が隠蔽・消去したものを密かに伝える、「正史に抗う」歴史と見なされることがある。
しかし、それらの多くは発見・継承者の矛盾が突かれたり、内容的にも時代錯誤な点が指摘されたりするなど、偽書のたぐいとして意見されるのが常だ。そうした古史古伝の一種として数えられるものの中で、最も一大騒動として展開されたものというと、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)だろう。
「東日流外三郡誌」は、1975年に市浦村(青森県北津軽郡)在住であった和田喜八郎という人物宅の天井裏から発見されたという史料集である。75年から77年にかけて市浦宣氏資料編として上中下巻が刊行され、後年幾度もの出版がなされるほど影響力を有していた。
「東日流」とは「津軽」のことであり、外三郡とは「江流末」(えるま)、「馬」(うまの)、「奥法」(おきほ)を指している。江戸後期、そして明治以降も加筆されていたというその内容は、平安中期の陸奥辺境に在地していた武将の安倍貞任の子の末裔である安東氏、その一族の歴史と伝承をまとめた史書とされている。
畿内大和にあった王国より長髄彦(ながすねひこ)と兄の安日彦(あびひこ)が神武天皇に追われて東北地方に逃れ王朝を築いたと記されており、この安日彦が安倍氏の遠祖であったと伝わっているのだという。非常に膨大な資料として発見された古代東北の史料集『東日流外三郡誌』だが、その話題性と比例するように多くの真贋論争が展開されることとなった。
『東日流外三郡誌』は、内容的にも数々の問題を抱えており、江戸時代に記されているはずなのに明治以降の事柄(地名の区分など)が記載されている、史実の数百年のずれどころか父より先に子が産まれているというような、年代錯誤が多々見られるほか、実在が怪しい人物や職名、寺などが散見されている。
内容以外の面においても問題は山積みだ。まず発見者である和田の原稿筆跡と『東日流外三郡誌』の写本の筆跡が酷似しており、字形や用語の誤りも共通しているということ。
そして、「自宅改築中に天井裏から発見」されたという証言についても、そもそも当時の和田宅は昭和15年ごろに古家を解体したのち新築されたものであり、そのような場所から古文書が”発見”されることは考えられないということ。
さらに、皇宮警察に勤めていたというような和田の経歴は昭和2年の生まれであること以外、ほとんどが嘘であることが指摘されており、『東日流外三郡誌』の編纂協力者とされている先祖が架空であることが判明している。
こうしたことから、一般に『東日流外三郡誌』は、ほぼ和田一人の執筆(創作)であると見なされているようだ。民俗学者の谷川健一すら、「学問的に一顧の価値もない」と切り捨てている。
『東日流外三郡誌』に登場する情報量は、その紙数からもわかる通りきわめて膨大だ。そのため、「仮に偽書としても本当に和田一人で書けるものなのか」と疑問に思う人もいる。これについては、和田が多くの新聞や書物からよい題材を取り入れ、およそ40年以上に渡って意欲的に練ったものであるとすれば不可能ではないとする意見もある。
東北という地は史料がきわめて少ないため、古代の様相はよくわかっていないのが現状だ。そのせいもあるのか、「秀真伝」などにも東北、特に青森県に存在していたと考えられている「日高見国」という、大和朝廷と並ぶもう一つの日本とも称された国の存在が示唆されている。
実証が厳しいために好き放題設定を創られてしまうと考えるのは俗的かもしれないが、わずかな可能性としては、実際に東北には一大繁栄を築いた勢力が実際におり、それが密やかに伝わっていたものが『東日流外三郡誌』などで肉付けされたということも過らなくはない。
・時の権力によって構成された正史にせよ、民間で編まれた稗史にせよ、何が事実で何が虚偽なのかの追究は尽きない。「歴史は歴史学者によって作られる」とは、東洋史学者の岡田英弘の言葉であり、これは追究をする者にとっては非常に重いものになると言えるだろう。
【参考記事・文献】
佐治芳彦『古史古伝入門』
安本美典『東日流外三郡誌「偽書」の証明』
三上強二・原田実『津軽発『東日流外三郡誌』騒動』
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【文 ナオキ・コムロ】
画像『東日流外三郡誌 古代篇 上』