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300年以上生きた忠臣「武内宿禰」日本で親しまれた英雄は本当に実在したのか

武内宿禰(たけうちのすくね)は、記紀に伝わる古代の人物の一人である(「宿禰」は尊称)。古代史における伝説的な忠臣として、300余年に渡って生き続け景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代もの天皇に仕えたと言われている。

戦前では、「修身」とうい授業でも多く取り上げられて紙幣の肖像にもなり、神功皇后の三韓征伐に同行した姿がたびたび描かれるなど、日本では馴染み深い存在であった。蘇我氏・平群氏・紀氏・葛城氏といった中央豪族の祖となったとも言われている。

彼のエピソードは、きわめて強い忠臣ぶりに溢れている。景行天皇に仕えた際に東国の視察を命じられ、その地が非常に活気あふれていることから反発する有力者の出現を危惧し、蝦夷討伐を勧めたという。

また、ある時景行天皇が有力者を集めて宴会を開いたが武内宿禰は出席をしておらず、呼び出して訳を聞くと警備が手薄であることから万一天皇の身に何かあってはならないと門に控えていたと回答、いたく感激した天皇は武内宿禰を棟梁之臣という有力者を取りまとめる配下でもトップの地位に任命したという。

それもまだ序の口であり、景行天皇が崩御されてのち、幼馴染で生まれた日も同じという成務天皇が皇位に就くと、気心が知れたことで寵愛されたものの、立場をわきまえた振る舞いを彼が守ったことでさらに厚い信頼を受け、大臣(おおおも)を任命されるほどであったという。

彼は、その忠臣ぶりから理想的な賢臣の象徴となったが、それだけではなく多くの助言が天皇にとって貴重なものであったことから、政務や軍事において卓越した能力を発揮したと言われている。

三韓討伐といえば、カリスマ的な女傑と語られている神功皇后が新羅に遠征し討伐、その後百済や高句麗も日本に帰服することになったという歴史的な出来事だ。

前述したように、この時神功皇后と討伐に同行したのが武内宿禰であった。余談だが、記紀ではこの時神功皇后は妊娠中で討伐後にのちの応神天皇を産んでおり、絵画においては皇后の傍に武内宿禰が赤子の応神天皇を抱えながら座して描かれることが多い。

さて、戦略にも長けていた武内宿禰のエピソードの一つに、仲哀天皇の皇子である忍熊王(おしくま)の反乱がある。天皇の死が神功皇后の策略であると主張した忍熊王が反乱を起こし、武内宿禰が討伐軍を率いることとなった。

対峙した際、武内宿禰は和睦を申し入れて弓の弦を切り刀を川に投げ捨てるなど、互いに武器を捨てることを提案した。それを見て忍熊王が部下たちに武器を捨てさせた瞬間、武内宿禰の軍は予備の弓矢と刀を取り出して一斉に襲撃をしてあっという間に討伐してしまったのだ。

こうしたエピソードに加え、武内宿禰は多くの逸話や伝説が残され、神功皇后が神田に水を張るために水路建設を命じたところ大岩にぶつかってしまい、剣と鏡を与えられた武内宿禰が神に祈りを捧げて気を発した瞬間、大岩が真っ二つに割れて水が流れ始めたといったものもある。知恵や戦略のみならず、宗教的儀礼についても大いなる能力を有していたようだ。

武内宿禰のこうした伝説は、複数人の有力者の業績をまとめたものであるとの説もある。そのため、そうした有力者の偉業を集約させた架空の人物であるとも言われている。

また、物議を醸した古文書「竹内文書」の作者とされる平群馬鳥(へぐりのまとり)は武内宿禰の子孫であるという話もあり、さらには彼が景行天皇に報告をしたという東国が、もう一つの日本と称された「日高見国」の存在を示唆しているのではないかという説もある。

武内宿禰という存在は、古代史を語る上でその実在の肯定否定を問わず欠かせない存在となっているのは間違いない。

【参考記事・文献】
【古代日本の謎】武内宿禰の伝説と現代  歴史、文化、紙幣に描かれる偉人
https://megurulife.net/takenouti-2190
スーパースター武内宿禰は実在したのか?~武内宿禰の生涯にせまる~
https://zinja-omairi.com/takenouchisukune/

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用