エジプトの第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世の正妃にして、ツタンカーメンの義母であるネフィルティティといえば、クレオパトラ7世とネフェルタリと並び古代エジプト三大美女の一人に数えられる美貌の持ち主であったと言われている。
アメンホテプ4世の治世にて、多神教であったエジプトの古代宗教から太陽神アテンを崇拝する一神教への変革が行なわれたことに、ネフェルティティが強く関与していたと言われているなど、彼女は権力に対しても多大な影響を与えたという。
だが、アメンホテプ4世の死後、古来の制度に戻ろうとするエジプトの意向に伴い、ネフィルティティについての多くの痕跡が抹消されてしまったためその生涯は多くの謎が残されてしまっている。
彼女が絶世の美女であったと言われる所以は、1912年に考古学者ルードヴィヒ・ボヒャルトたち研究チームによって発見されたネフェルティティの胸像だ。つい最近に色が塗られたかのような鮮やかなその胸像は、高い頬骨に細い首、中性な顔立ちという美を象徴するかのような姿であった。
近年では、CT画像によってネフェルティティの胸像が撮影されたことによって、石灰石の素像に何層もの漆喰が塗られていることが判明し、しかもその素像の顔はいくつのもシワがあり鼻筋にコブがあることもわかったことで、ネフィルティティは本当に美女であったのかとの疑問も持たれているようだ。
ネフェルティティが、絶世の美女であったことを思わせる逸話がある。
元々ネフェルティティはアメンホテプ3世の王妃として異国からエジプトへやってきたという。しかし、わずか2年後にアメンホテプ3世が亡くなり、王位に就いた息子のアメンホテプ4世(当時16歳)が引き継ぐような形でネフェルティティを王妃として迎えた。その婚礼の日、ネフェルティティの姿を見た彼はたちまち上の空となり、手が震え激しく脈打ちだすほど見とれたという。
彼女の出自は不明であり、無名の両親から生まれたと言われている。ただ一説には、メソポタミア一帯を支配していたミタンニ王国の王女タドゥケパであったとも考えられている。当時のエジプト宮廷には、周辺諸国から多くの王女が差し出されていたとされており、ミタンニ王が「わが自慢の魅力あふれる美しい娘」を差し出したという記録があり、これがネフィルティティを指していると考えられている。
なお、ネフェルティティは「訪れた美しい者」を意味しており、これはアメンホテプ4世の宗教改革の際に与えられた名前であるという。
アメンホテプ4世との仲は非常に睦まじかったらしく、大衆の面前で堂々とキスをしたり、公務の場に娘たちを入れて遊ばせていたりなど、それまでエジプトに無かったスタイルを多くもたらした。それは、前述したアテン信仰への変革にも大きく表れており、この時には芸術様式を大きく変えることでイデオロギー変格を推し進めたと言われている。
しかしながら、この急激な旧体制の解体が多くの反発を生んだことは想像に難くなく、アメンホテプ4世の死に伴いその影響力は瓦解していき、旧勢力の巻き返しによって権力を奪われた末に37歳で死去した。
ネフェルティティが絶世の美女であったというのは、権力の下で象徴的存在とするなかで形作られたフィクションであったかもしれない。胸像が中性的であったのも、父性と母性の両方を兼ね備えた神聖なる存在であることを強調した理想像であった可能性もあるだろう。
とはいえ、美女ではなかったと断言することも明確な資料が残っていないため断言することはできない。
【参考記事・文献】
【古代エジプト】美しき宗教改革者ネフェルティティ
https://x.gd/jJQrN
古代エジプトの謎多き王妃ネフェルティティ、美貌に隠れた政治力
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/030900107/
ネフェルティティ
http://fusigi.jp/fusigi_4/works/works_13_t.html
【文 黒蠍けいすけ】
画像 ウィキペディアより引用