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8倍もの敵勢を撃退?!超人的強さ持ったサラブレット武将「立花宗茂」

立花宗成は、安土桃山から江戸初期にかけて活躍した九州の武将である。豊後大友家の忠臣で戦国一の義理堅さを有していたと言われる高橋紹運(じょううん)を父に、同じく大友家に仕え生涯無敗と称えられた立花道雪(戸次鑑連:べつきあきつら)の娘誾千代(ぎんちよ)を母に持つ、日本史上屈指の武勇と信義を併せ持ったサラブレット武将と言われる。

道雪の下で幾度もの戦に加わり優秀な戦果を挙げ続けた宗茂は、猛攻する島津勢を蹴散らした上に猛追という華々しい活躍を見せた。このことは豊臣秀吉をして「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」と言わしめたほどであり、さらに「東の本田忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と絶賛した。のちに両者は小田原征伐の際に対面し深夜まで酒を酌み交わしたという。なお、忠勝は宗茂の父紹運と同い年であった。

超人とも言わしめた宗茂の逸話は数多い。8歳のころに赴いた見世物の最中に群衆の中で争いが起こる騒動が起こった際には、「今日の見世物はこれで終わったのか」とお供に聞き、さらに騒ぎが広がって危険だから立ち去ろうと進言されると「我々はあの論争の相手ではない、どうして立ち去る必要があるのか」と笑顔で答えたという。

また、同様に幼い頃に猛犬が襲い掛かってきた時、刀を抜いてすれ違いざまに叩いて猛犬を退散させたのだが、父紹運から「なぜ斬り殺さなかったのか」と問われ「刀とは敵を斬るものと承っております」と答え、その幼いながらの武士の器量に紹運が感涙したと言われている。

なお、島津軍の大戦果によって隠れがちであるが彼もまた朝鮮出兵に参加しており、寡兵を率いて大軍を打ち破る戦果をあげている。慶長の役で窮地に陥った加藤清正を救出し、「日本軍第一の勇将」と絶賛されたほどであった。また朝鮮出兵は、白村江の戦い以来となる朝鮮半島での衝突であり、宗茂は碧蹄館の戦いで先発軍の先鋒大将を務めた上、初戦勝を飾ることとなったという。

そんな宗茂の初陣は、嘉穂地方の支配権を巡って島津氏と秋月氏が幾度も戦闘を繰り広げていた戦国末期の頃のこと。1581年に大友宗麟が筑後国に出陣し、九州で最も領地を広げた反骨武将と言われる秋月種実の軍勢と対陣することとなった。この時、大友方となる道雪と紹運の両勢と秋月勢による八木山の石坂で大合戦が繰り広げられることとなった(八木山合戦、石坂の戦い、嘉麻・穂波の戦いなどと呼ばれる)。

この時、初陣となった宗茂は16歳という若さでありながら、わずか150という兵力にも関わらず敵将の首を取るという成果をあげ、初陣とは思えない指揮を見せたという。

宗茂と秋月勢との戦いはその後も展開されており、1585年、道雪と紹運が筑後奪回戦に参陣する中で立花山城にて留守を預かっていた際には、8,000もの秋月軍勢が攻め込む中、わずか1,000という兵力でありながら夜襲や火計により撃破してしまった。このことを道雪は「天性の質を供えている、末は立派な武将となるだろう」と齢70を超えた身ながら絶賛を惜しまなかったそうだ。

【参考記事・文献】
旧・鎮西村の歴史(石坂・潤野の合戦)
https://blog.goo.ne.jp/w-hiroki-45/e/6aa7d7ff275e3ab728820a047750c5d7
千人塚(石坂古戦場)
https://ameblo.jp/yukizane/entry-12111697537.html
立花宗茂
https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82

【アトラスラジオ関連動画】

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用