昭和後期を代表する演歌歌手として知られる都はるみ。1964年に『困るのことヨ』でデビューし、同年の「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーとなる大ヒットとなり、「はるみ節」と呼ばれる独特の歌唱によって瞬く間に人気を獲得していった。
1987年から93年まで放送されていたバラエティ番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」にて、彼女の『好きになった人』の音源がオチとして使用されたことで都はるみとこの楽曲を知った子どもたちも多かったと言われている。
彼女がデビューしたばかりの60年代、大きな反響を与える2つの出来事が発生している。
1966年7月、彼女の自宅にファンを名乗る男性からの電話があり、聞けばすでに彼女の自宅最寄り駅におりサイン受け取るために家へ向かうという。当時、こうしたファン対応は同居していた妹が行なっており、帰宅したばかりの都はるみがサインを書き、玄関口で妹が男性に渡すという段取りだ行なわれるはずだった・・・
だが、押し入られる危険性からドアチェーンをし、その隙間から訪れた男性にサインを渡した直後、男性は持っていたナイフで応対した都の妹を切りつけ逃走してしまったのだという。全治2週間のケガを負った妹を見て、彼女はこの事件を機にファンとの距離を一層置くようになってしまったと言われている。
また1969年11月、『週刊平凡』にて彼女の父親が在日韓国人であり、ハーフだったということが母親によってカミングアウトされた。ひどい差別を見返すために歌手として育てるよう努めたと綴るその内容は、予想外の反響を呼び、今後の歌手としてのキャリアに支障が出ると判断した母親は以降取材をすべて断るようになり、都はるみ本人もこれについて口を開くことはなかったという。
実際、このカミングアウトの影響により、1976年に彼女がレコード大賞を受賞した際には、「父や日本人ではない人が賞を取ってよいのか」といったバッシングがメディア上で展開された。そんな中で、彼女を優しく励ましていたのが美空ひばりであり、都はるみ自身この時のことを「励みになった」と語っているという。
都はるみと美空ひばりには、とある縁があった。1984年、都はるみは「普通のおばさんになりたい」という引退宣言をしたのだが、のちの1990年には歌手として復帰を遂げており、そのきっかけは美空ひばりの訃報であったという。昭和の歌姫と呼ばれた存在がいなくなってしまったことへ、何かしらの思いを感じ取っての復帰だったのかもしれない。
だが、特に注目されたのは引退した84年、引退前最後の舞台として出演したその年の紅白歌合戦でのできごとである。
彼女の最後の晴れ舞台ということで放送前から大々的に宣伝され、大トリもつとめることとなった。そして、この年の紅白歌合戦は史上唯一「アンコール演出」が用意されることとなり、最高視聴率はなんと84.4%にも達したと言われるほどの伝説の回となった。
彼女にとって最大のハイライトともなった紅白であったが、実はこの時別の騒動が起こってしまった。
この時、総合司会を務めていたNHKの看板アナウンサー生方恵一が都はるみのアンコールも終了し得点集計に入ろうとした直前のこと。「もっとたくさんの拍手を、ミソラ…都さんにお送りしたいところですが」と、なんと都はるみの名前を美空ひばりと誤って言ってしまった。
この出来事は、翌日いわば年が明けて「ミソラ発言」として大々的に週刊誌等で取り上げられる事態になってしまった。
80年代は、FOCUSやFRIDAYが創刊され、スクープのために報道や取材が過激化していった時期でもあり、そのような中で生方の発言は絶好の標的になってしまったのである。その後、異動したことによって「ミソラ発言が原因」との憶測が強まったが、異動自体は既に知らされていたことであったと発言との関与を否定していた。
一方で、言い間違えをされた当事者2人はむしろ同情的な態度であり、この騒動以後も変わらず親交は続いたという。思いがけない騒動ともなったが、それにしても都はるみと美空ひばりの縁は深いようだ。
【参考記事・文献】
紅白名言集解説・35~ミソラ事件~
https://kerseemusic.com/archives/644
紅白事件簿 司会者が都はるみを「ミソ…」と間違い波紋
https://www.news-postseven.com/archives/20161224_477938.html?DETAIL
紅白歌合戦・都はるみの軌跡~データ&エピソード編~
https://kerseemusic.com/archives/5502#toc5
都はるみの本名と年齢・実家の家族・韓国や生い立ちと若い頃を総まとめ
https://arty-matome.com/I0001818
【文 ZENMAI】
画像『都はるみ全曲集』