※下記は2019年4月の記事の再掲載です。
1972年(昭和47年)12月11日の朝日新聞の記事に
「操縦士 奇跡の生還」
という海外で発生した事件が報道されている。
これはカナダの極寒地帯で11月8日から行方不明になっていた軽飛行機(ビーチクラフト社製)が1ヶ月ぶりに発見され、搭乗していたパイロットのマーテン・ハートウェルさんが31日ぶりに救出されたという事件だ。
記事によると、11月8日、この航空機はこの盲腸炎の疑いのある少年と早産の婦人、そして看護師の3人を載せて、離島であるカナダのビクトリア島ケンブリッジからカナダ中心部でノースウエスト準州の州都であるイエローナイフまでおよそ500キロの搬送を行っていた。
しかし、途中でこの航空機は突然消息を絶ってしまいハートウェルさんを含む搭乗員4名も行方不明になってしまった。
ビクトリア島からイエローナイフに至る道中はこの時、既に冬季となっており、最低気温は氷点下30~40度にもなる極寒の地。すぐに救急隊が派遣されたが、日照時間が4時間で吹雪も吹き荒れていたため、思うように捜索作業が進まず「救出は絶望」とし10日に捜査を打ち切ってしまった。
しかし、それから20日後、カナダの軍機がイエローナイフから約300キロ離れたグレートベア湖にて故障機から発されるビーコンをキャッチ。そして、墜落機の脇で焚き火をしている人間を発見したのだ。
生存者はハートウェルさんの一名のみで、他の乗客は飛行機の墜落後、寒さにより全員死亡してしまったという。
グレートベア湖付近は12月の気温はマイナス20度~30度、ひどい時にはマイナス40度も記録する紛れもない極寒地帯。このパイロットは凍傷を負ってはいたが、元気であり、手当した医師も「まさに奇跡だ」と驚きを隠せなかったという。
なお、看護師と早産の女性(と腹の中にいた赤ん坊)は航空機の墜落後、すぐに亡くなってしまったが、盲腸炎の少年は病気に苦しめられながらも23日間は生きており、24日目に静かに息を引き取ったという。
航空機にはマッチと5人分の寝袋、5名分の6日間の食料などが積んであったものの、当然足りず、ハートウェルさんひとりでも生き残ったのはまさに奇跡であった。
マイナス30度~40度というと日本では、210名中199人が死亡した八甲田雪中行軍遭難事件(1902年)とほぼ同じ(マイナス38度~41度)である。八甲田山事件は多くの小説や映画でも書かれている通り、30時間後には発狂者が続出するなど、この世のものとは思えぬ地獄のような光景になる。
このハートウェルさんだけが行き残った原因はわからないが、人知及ばぬ「人間の隠れた力」がなし得た奇跡だったのかもしれない。
(文:江戸前ライダー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
Photo credit: Francis =Photography= on VisualHunt.com