
以前、アトラスにおいて戦前の慶応大学で起きた白澤が関与していると思われる祟り事件を記事にしたが、今回は京都大学の祟り事件を紹介したいと思う。
田中貢太郎の「京都大学の祟地蔵」という一文を参考にしてみたい。
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大正8年に京都大学で発生した祟り事件である。動植物学教室建設のため京都大学では百万遍知恩寺と白川街道に挟まれた土地を購入した。この土地の工事中に大量の地蔵が発掘された。供養もせず地蔵をそのまま放置していると工事請負人の小島某と言う人物が病気で亡くなってしまった。
そのうち洋館が完成したが、大工の棟梁である服部某、土方の某が死亡、大学の建築部長山本治兵衛も死に、会計課長の今井某は樺太で客死した。京都大学では祟りだと評判になった。
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大学に出入りしていた一人の商人が、紀伊郡櫓大路村の稲荷下げの婆さんに相談に行ったところ、「すぐに祀り、毎日水をあげないと、あと六人死者が出る。あと三九郎、義春という二匹の狸もいる」と言われた。動植物学教室の建設プロジェクトの中心人物だった池田教授に相談をしたが、教授は笑って相手にしなかった。すると4、5日後に池田教授が大学病院で死亡した。
この事態に至り、小川、川村、郡場、小泉の諸教授、出入りの商人が寄付をして、構内東南に二坪程の台場を築き、それに石地蔵を並べ、狸の祠も作った。そして花・餅・赤飯を供え、お祭りを執行したところ、祟りはおさまった。以来、毎年盆の二十八日には例祭を行うこととなった。
どうやら戦争前には、このような西洋文明に浸っている学術と精神世界の魑魅魍魎との激しい戦いがあったように思える。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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