オーパーツ

別々の文化が混ざり合った謎の遺跡?!北硫黄島の「石野遺跡」

北硫黄島は、小笠原諸島に属する三島(北硫黄島、硫黄島、南硫黄島)で構成される火山列島の最も北側に位置する無人島である。

東西2km、南北3.5km、面積5.57平方kmほどの規模を持ち、火山活動によって形成されたこの島は、明治期に母島からの移住者が集落を作って主にサトウキビ栽培を行ない、最盛期には2000人もの島民が住んでいたという。戦時下の1944年、強制疎開によって以後、北硫黄島は再び無人島となり現在に至っている。

この北硫黄島には、およそ2000年前のものと考えられる遺跡が存在している。1991年、北硫黄島の石野村裏手の斜面にある巨石周辺から、磨石、素焼きの土器などが散乱した状態で発見され、のちに「石野遺跡」と称され知られるようになった。

きっかけとなったのは1920年のこと。東京帝国大学の植物学研究所の調査団が小笠原諸島とマリアナ諸島の植物調査の途上で北硫黄島に立ち寄ったところ、悪天候によって上陸ができず沖合で停泊することとなった。

その時、島の警察官が艀(はしけ:貨物用の船)に乗って船を訪れ、団長であった中井猛之進教授にとある包みを手渡した。その包みは、村長であった石野平之丞から預かってきたものであると言い、島内で発見されたという3本の磨製石斧が入っていた。

石斧は意志の村付近のサトウキビ畑から発見されたと言われている。また、マリアナ諸島の磨製石斧との関係性が指摘され、さらに父島や八丈島からも同様の石斧が発見された。石斧はのちに人類学研究所へ譲られ、戦争を挟み1972年から調査が着手されることとなった。

その結果、父島や母島から打製石器や骨角器などが採取され、有史以前の古代には人が居住していたことが判明した。

遺跡からは、祭壇のようなものも発見されており、なんと南東部の巨石にはxやaのような形が描かれている線刻画が確認された。この線刻画については、何が書かれたものであるかは判っていないが、ハワイと同様に鋭い道具で叩いて刻む手法で書かれているという。




大小の石によるストーンサークルもあり、シャコ貝やサンゴも使用されていることから、沖縄本島からの文化の影響を受けている可能性も示唆されている。

このことから、北硫黄島は海の民による航海の無事を祈った「祭祀の島」だったのではないかとの考察もなされている。そして、オセアニアや琉球などと酷似した文化も残されていることから、漂着した人々による文化の混成がなされ独自の文化が形成されていったのではないかとも考えられている。

石野遺跡には、いくつかの謎も残されている。動物の骨はいくつも発掘されている一方で人骨は発見されていない。このため、石野遺跡を形成した人々がどのようなルートによって島へやってきたかについては不明のままとなっている。

これについては、水葬の風習があり海に沈められたのではないかとの説もあり、また南太平洋に同様の風習があることからもその関連が推測されている。

また、前述した村長から預けられたという磨製石斧についても、周辺の島から同様のものが発見された反面、これまで石野遺跡からは全く発見されていないという。先に挙げた祭壇跡についても、本当に当時からのものがそのまま残されていたかについても不明であり、多くの部分がわからないままとなっている。

そもそも石野遺跡の調査は、1993年に調査団の団員2名が失踪、のちに遺体となって発見されて以降北硫黄島そのものがタブー視されてしまい、現在に至るまで行なわれていないという。いつか、調査が再開されることを願いたい。

【参考記事・文献】
北硫黄島・石野遺跡について
http://www.iwojima.jp/n_iwo.html
北硫黄島「石野遺跡」 石の謎30年 先史時代の痕跡、調査中断のまま
https://www.tokyo-np.co.jp/article/114087

【アトラスニュース関連記事】

「与那国海底遺跡」は海底に眠る古代に栄えた文明の痕跡か1986年、南西諸島八重山列島にある日本最西端の島「与那国島」の南側海底において、地元のダイバー新嵩喜八郎(あらたけきはちろう)が巨大な...

(ZENMAI 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用