およそ60余年もの長きに渡り、第二次世界大戦と高度経済成長などといった激動の時代に在位していた昭和天皇。昭和という時代における国民の思いを一身に背負っていた昭和天皇には、さまざまな逸話が語られているが、その中でも特殊な関わりを持ったとある2人の人物について紹介する。
一人は、三上照夫。昭和3年に京都で生まれた彼は、台湾沖の特攻作戦で重傷を負うも生き延びた人物である。昭和天皇のご進講役に抜擢され、昭和51年から62年までの間天皇の私的な相談役を務めたという。彼を知る人たちの間では、「天皇の国師」と呼ばれていた人物でもある。
三上は敗戦ののち、古神道・キリスト教学を探究し、さらに臨済宗の禅などを通じて独自の宗教・哲学の境地を切り開き、修行を通じて神降ろしの集会も行っていたという。
敗戦直後の日本でのこと。当時、日本は占領軍の支配下にあり、意に沿わない学者などはことごとく追放されるような環境であった。また、マッカーサーによってキリスト教の布教も強く推し進められていた状況にあり、このことは皇室も例外ではなかった。
この頃、天皇は改宗をすべきか否かに苦悩していたという。全国民の飢えをしのげるのであれば改宗もやむなしか、しかし改宗をしてしまえば皇祖皇宗に対して大変な違背を犯してしまう、その板挟みであった。そんな中で、天皇の改宗を阻止すべく、当時臨済宗の学僧であった20代の三上が、何も失うものもなく恐れを知らない若者ということでご進講役に抜擢された。
応接室にて天皇と初めて対面した三上はがちがちに緊張しながらも、天皇がその年の歌会始に詠んだ「冬枯れの 寂しき庭の 松ひと木 色かへぬをぞ かがみとはせむ」という歌を突然大声で歌い始め、そのまま退室してしまったという。天皇はそこで、歌の中の「色かへぬ」に改めてハッと気づかされ、精神まで占領されてはいけない、中心の行方を見失っては国民は動揺し復興も進まないと察し、ついに改宗することはなかった。
それから30年近くが経過したある時、天皇はふとかつて三上と名乗った若者のことを思い出し、その後私的な面会が実現し、その後神道と日本文化についてのご進講が皇太子をはじめ皇室内でなされたという。
もう一人は、小泉太志命。彼は明治40年に青森で生まれ、きわめて優れた剣道少年として名が知られていた。鹿島神流を徹底的に叩き込まれた彼は、霊能面でも優れた逸材であるとの評価が高まっていった。
昭和12年のある時、立命館大学の創立者であり、元首相西園寺公望の私設秘書でもあった中川小十郎から小泉へ驚くべき依頼がなされた。中川は家宝である備前則宗の名刀「菊一文字」を小泉に差し出しこう言った、「この刀を使い、天皇陛下に降りかかる呪詛や怨念を生涯かけて祓ってほしい」。
これを受けた小泉は、不惜身命(身も命も捧げる覚悟)にかけて承知し、以後鹿島などの道場に籠り独自の手法を伴って、来る日も来る日も真剣を振っていたという。なんと、皇居爆撃の任務を負っていたB29一機が上空で忽然と消えたという逸話まである。
敗戦後は、「元伊勢」と称される三重県の伊雑宮(いざわのみや)のそばに神武参剣道場を建て、天皇と日本の安泰および日本の霊性を守るため一日3万回以上も道場にて真剣を振っていたという。晩年「伊勢の生神様」とも呼ばれていた彼は、昭和天皇崩御によって自らの使命は終わったと悟り同年に世を去った。
両者ともに、表立って語られることの少ない人物ではある。しかしながら、昭和天皇の戦後の動向に大きな影響を与えた三上照夫、また霊剣によって昭和天皇の防護に生涯をかけた小泉太志命。
昭和天皇そして日本の行く末を語る上で彼らの働きが関わっていたことは、より多くの人々に知られても良いのではないだろうか。
【参考記事・文献】
宮﨑貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』
宮﨑貞行『天皇防護 小泉大志命 祓い太刀の世界』
(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 satobi1102 / photoAC
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