サブカル

男気と誇りを炸裂させるミュージシャン「矢沢永吉」伝説

画像『Rolling Stone Japan 矢沢永吉 日本武道館150回公演記念 Special Collectors Edition

矢沢永吉は、ロック・バンド「キャロル」のリーダーとしてデビューし、解散後はソロとして現在も活躍している日本の代表的ロックミュージシャンである。

彼のファンの熱狂ぶりは界隈の中でも屈指ともされており、その生きざまを人生の指針とするなど「矢沢になろうとする」ファンが多い点で、他のアーティストのファンとは異なった独自の文化が築き上げられている。メディア露出よりもライブ活動を重視しており、マイクスタンドを振り回すアクション「マイクターン」や、コンサートにおいて楽曲に合わせてタオル投げが会場全体で起こるといった特徴も有名である。

広島で生まれた彼は極貧で育ち、幼少時に母親が家を出て被爆者である父親も原爆の後遺症で亡くなっている。天涯孤独となり、親戚をたらい回しにされていた中で、裕福な家庭の子から「お前の家はケーキも買えない貧乏」だとケーキを顔に投げつけられる仕打ちまで受けていたほどであった。

そんな彼は、中学時代からビートルズに魅せられて、将来はアーティストを目指し「俺はBIGになる」と決意したという。ギターを片手に広島を出た彼は、横浜で米軍基地やキャバレーで歌ったりバンドを作っては潰す日々を過ごし、1973年には「キャロル」を結成。

実はキャロルでデビューする時のこと、内田裕也にキャロルのプロデュースを依頼していたが、ミッキー・カーチスがキャロルに声をかけてきたためにそのままカーチスの元でレコーディングが行なわれデビューとなった。このことに内田は激怒し矢沢を殴ろうと呼び出したのだが、矢沢は正座し「自分が悪いので一発もらえますか」と詫びを入れ、内田はこの姿勢を見て「大物になるに違いない」と確信したという。

男YAZAWAがスタートした瞬間であったとも言えるだろう。

矢沢によれば「ロックでメシを食ってるヤツなんていなかった」「アーティストとして権利を主張するのがこれからは絶対必要になる」という信念のもと、著作権、印税といったものを独学していたという。こうした自分の作品に対する徹底した管理姿勢が、今も語り継がれる矢沢の伝説や言動につながっていることは間違いないだろう。そしてそれは、ミュージシャンとしての自身の強い誇りと矜持ともなり、数々の語録や名言をも生み出している。

当時所属していた事務所とレコード会社の重役と言い合いになった際、「所詮歌手は人気商売」「いつまでも人気が続くと思うな」と面罵された矢沢は、「青めが一生かかって稼ぐ額は矢沢の2秒だ」と返したという伝説は、多くのロックファンの心をつかんだ(ただ、後年この話について問われた際「話が大きくなってる」「2秒なわけねーだろ」「イメージ悪いよ矢沢」と苦笑していたという)。




ミュージシャン矢沢としての矜持は一貫したものがある。70年代のアメリカン・ロックの代表的バンドであった「ドゥービー・ブラザーズ」とアメリカでレコーディングした時のこと、緊張感が無い彼らに対して「あんたがたは世界のドゥービー・ブラザーズだが、日本へ行ったら俺は矢沢だ」と喝を入れたという。

のちに彼らは「矢沢のようにしっかり発言する日本人は初めてだ」と回想している。2003年6月5日に開催されたディズニーシー・シンフォニーにて、終了後に矢沢が登場して「星に願いを」を歌った。後日ギャラについて連絡があると、「世界で俺にしかできないことをやらせてくれたんでしょう?」と受け取りを断ったという。

また、矢沢の大ファンである近藤真彦から楽曲提供のオファーがあった際、近藤をべた褒めをしたものの「ごめんね、最高の曲ができたら俺が歌いたいから」ということで結局NGになったという。

豪快さと思い切りも矢沢を象徴する点の一つであろう。まだ携帯電話もない時代、矢沢がポルシェでコンサートツアーの会場へ向かう途中で道に迷ってしまい、「俺矢沢だけど迷子になっちゃった。国道まで案内してくんない?」と地元の暴走族に声をかけた。その結果、地元の暴走族のほか、途中から他の暴走族が合流して道を走ることとなり凄まじい光景となったという。

ある体育館でライブが行なわれた時の事、ライブ後に必ずシャワーを浴びる矢沢であったがその場所にはシャワーが無く、困った若手のスタッフが子供用のビニールプールに水を張って控室に用意。戻ってきた矢沢がそれを見て「誰が用意したの?」と聞いて当のスタッフが激怒されること覚悟で挙手したところ、「矢沢、君の仕事一生断らないから」と言ったという。

彼なりの茶目っ気でもあったのだろうか、娘に「最高の親子丼を見つけた」と矢沢の電話がかかり、帰宅した矢沢の手元には「なか卯」のテイクアウトされた親子丼があったという。

そのような彼であるが、とんでもない事件に巻き込まれたことがあった。1998年、矢沢の元側近がオーストラリアの土地取引を巡って横領事件を起こしたことが発覚、その額なんと35億円という巨額なものであった。50歳を超えて35億円の借金を抱えることとなった矢沢であったが、これに奮い立ち年間100本を超えるライブを観光、15年で見事に完済させることができた。ちなみに、この額はオーストラリア犯罪史上2番目に大きな被害額であったという。

いかなる困難が立ちはだかろうとも、それを自らの力で切り抜けようとする矢沢の精神力は尋常ならざるものがある。世に様々な啓発的発言はあるものの、これほどに説得力が突き抜けているのはまさしく矢沢だからこそであるとも言えるだろう。

「最近勝ち組とか負け組みとか流行っているけど、スタート切っているかどうかが僕は大事だと思うけどね」

この言葉は彼のミュージシャン人生の切欠でもあり、そして優しさでもあるのかもしれない。

【参考記事・文献】
矢沢永吉 数々の“伝説”に苦笑い「イメージ悪いよ」
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/11/07/kiji/K20131107006968200.html
矢沢永吉は最高にカッコいい。35億の借金を返したその人生に鳥肌が止まらない。
https://smartlog.jp/36975
矢沢永吉
https://dic.pixiv.net/a/%E7%9F%A2%E6%B2%A2%E6%B0%B8%E5%90%89
矢沢永吉の伝説 逸話などのエピソードまとめました
https://densetu.tokyo/yazawa/

(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)