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『怪談』を広めた小泉八雲のルーツは少年時代の体験にあった?!

昨今は、イベントや特に動画サイトという媒体によって怪談が語られる土壌が広く開かれており、ブームと称する以上に一つのコンテンツとして君臨している。現代における、こうした怪談の隆盛を鑑みる上で、小泉八雲の存在は欠くことができないだろう。

まさしく彼は、日本における怪談流布の功労者であった。

1850年、小泉八雲(出生名パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれた。彼は複雑な少年時代を過ごしており、父の故郷ダブリンへ移住したのち、生活に馴染めない母が心を病み、両親が離婚してのちは父方の大叔母の下に引き取られ、その後母と再会することはなかった。


さらに、左目の失明、父の急死、そして大変な資産家であった父方も破産し、彼は居場所を失って単身でアメリカに渡ることとなった。職を転々としているうちに24歳で新聞記者となり、その後開国間もない日本へ関心を示して来日し、松江の尋常中学校教師を斡旋され当地に赴任した。

1904年、彼は妻節子から聞いた日本各地に伝わる伝説や幽霊話をあつめ、作品集『怪談』として世に送り出した。彼の代表作とも言えるこの『怪談』が誕生した背景には、彼の少年期が影響しているのではないかとも言われている。多感な時期を大叔母の下で生活していた彼は、そのころ幽霊や妖精を目撃するなど多くの不思議な体験をしていたという。

その中で、最もよく知られているのは「のっぺらぼう」との遭遇だろう。

ある時、彼は薄暗い部屋の片隅に黒い服を着た女性がいるのを目撃した。当時、彼の暮らす屋敷にはジェーンと呼ばれる女性が居候しており、彼女だと思って呼びかけたところ、振り向いたその女性の顔には目の鼻もなかった。驚くとその瞬間に女性は消え去り、それから数日してジェーン本人は亡くなってしまったというのである。




この体験は、彼の代表作『怪談』の「むじな」の内容とも似ており、のちに『怪談』を生み出す下地がこのような体験で形成されていた可能性も考えられるだろう。

また、新聞記者を務めていた時代に、彼が書いた20点ほどの記事の中には、家に侵入した不審者を夫が追っていたところ妻の寝室で忽然と姿を消してしまったという、幽霊話とも思しきものが存在していた。この事件は結局のところ正体は幽霊でもなかったが、彼が幽霊に対して強く関心を抱いていたことが伺えるものでもある。

彼が幼少期から少年期を過ごしたアイルランドは、ケルトの国である。多くの妖精譚でも知られるケルト神話をはじめとして、ハロウィーンの起源の地でもあり、独特の文化が形成されていた土地である。彼は、母がアラブの混血でもあったことから、「自分には東洋人の血が流れている」「だから日本の文化や伝統などに接しても肌で感じ取れる」と自慢していたというが、それと共に、少年時代を過ごしたケルトという文化と、多くの妖怪や神々が信じられている日本の文化に、小泉八雲はなんらかの共鳴を感じ取っていたことも、強く影響を受けていたことは確かだろう。

【参考記事・文献】
山口敏太郎『怨霊と呪いの日本史』
小泉八雲は何をした人?どんな人?怪談を書いた理由や左目の失明など
https://rekishigaiden.com/yakumo/
小泉八雲が幼少期に遭遇した「のっぺらぼう」
https://npn.co.jp/article/detail/75347416/

(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用