島清興(しまきよおき)は、石田三成の参謀・軍師として戦国から安土桃山の時代に活躍した武将である。通称「島左近」という名で知られており、鬼左近として恐れられるほどに実力を持っていたと言われている。
彼の前半生は不明であるが、はじめは大和国筒井城主、筒井順慶に仕えていたと言われている。だが、彼の死後に筒井家の下から去りその後は石田三成の下に仕えたという。当時の三成は、左近に比べると一回りも二回りも若い武将であったため、左近はこの申し出を当初は断っていた。
だが三成は彼を諦めきれず、当時自身が有していた4万石のうち半分を差し出すという形で、とうとう引き入れることができた。この逸話は創作とも言われているが、「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」との揶揄が謳われるほど、当時の左近の存在は大きかったのである。
彼は関ケ原の合戦においても敵である黒田長政の軍勢から恐れられていた。その猛攻はすさまじく、黒田の将兵は合戦の後、左近がどのような装いをしていたかも記憶が残っていなかったと言われている。しかし、黒田の鉄砲隊の放った銃弾が左近に命中し、彼はこの合戦で命を落としたという。
ところが、島左近はこの時死んでおらず、生き延びていたのではないかという説が存在するのだ。彼の死体は戦場から見つかっておらず、その後なんと京都などで島左近の目撃が報告されているのである。
特に言われている説のうち、一つは現在の滋賀県長浜市の北辺にかつて存在した奥川並という集落に隠れ住んだというものである。雪深くなるこの山奥には、左近が最初に潜んだとされる「殿隠し」と呼ばれる洞窟が現存しており、また島林という地名も島左近の名を残しているという伝承がある。その後、この地が井伊氏の領地となったことで再び土地を移り、現在の静岡県浜松に隠れ住んだと言われている。
もう一つの説は、合戦後京都に移り立本寺(りゅうほんじ)の僧侶になったというものだ。この寺の境外にはなんと左近の墓があり、墓石には「寛永九壬申年」の歿と刻まれている。この記述が確かであるとすれば、彼は93歳という長寿であったことになる。さらに墓の台座には「土葬」と刻まれていることも気になるところだ。
ここで埋葬されている墓は、すべて骨壺が入る火葬墓であるということなので、この左近の墓のみが唯一土葬ということになるので、かなり特別な扱いをなされていたことが考えられる。
この他、琵琶湖に浮かぶ竹生島に逃れた、湖北の長浜に身を隠して農民の世話になった、果ては九州に逃げ延びたといったものなど、島左近の生存説はさまざま唱えられている。当時は、実際のところ浪人としての武士が日本中に存在していた。もし本当に生き延びていたとすれば、家康側につく大名にとっては討ち取るに価値のある人物ともなっただろうが、そうだとしてもあまりにも途方もない話になるだろう。
ともあれ、伝説として語られる分には超人としての逸話と結びつけられることに納得も行くが、いつか報復されるのではないかという恐怖感を大名たちの心中に刻み込むという意図によって、流布されたものであるとも考えられるだろう。
【参考記事・文献】
島左近は、関ケ原で討ち死にしたのか?~京都・立本寺にある左近の墓
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4543
家康暗殺計画を提案した謎の軍師「島左近」とは?ただものじゃないエピソードを紹介
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/78738/
島左近と石田三成の関係は?関ヶ原の活躍と生存説を詳しく解説!
https://pleasure-bit.com/996.html
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(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 ウィキペディアより引用