江戸時代初期の剣術家、特に剣豪として現代でも知られる宮本武蔵。いわゆる二刀流という二刀を用いた二天一流兵法の開祖としても有名な武蔵は、巌流島の戦いにおける佐々木小次郎との決闘や、自著『五輪書』で記される無敗伝説に基づき、多くの作品の題材ともなってきた。
現在、我々がイメージする剣豪宮本武蔵は、作家吉川英治の小説『宮本武蔵』によるところが大きい。不朽の名作とされる本作では、関ケ原の合戦後から巌流島の戦いまでを描き、作者曰く剣の道を求める一人の男の物語にすることをテーマとしている。
その一方で、史実に基づくことを目的としていないということには注意が必要だろう。それすなわち、我々が一般的にイメージする宮本武蔵は異なっているかもしれないということだ。
実際に、宮本武蔵に関しては嘘や矛盾とされる点が多く指摘されている。例えば、彼の無敗伝説は著書『五輪書』の序に記される彼自身の証言に基づいており、曰く「兵法を極めたからではなく天賦の才だったから」であるという。
あくまで現代から見た一般的な感覚からすれば、道をきわめる人物の態度としては謙虚さが無いとも思えてしまうだろう。また、60回を超える試合を行なったと記されているが、記録に残されている試合数はその3分の1にも満たないと言われており、その数の真偽も不明となっている。
また、五輪書には矛盾も見られるという。
同じく序において武蔵は、「仏教や儒教、他の軍記や軍法の言葉に頼らなかった」という旨の記述をしているが、そもそも五輪書の「五輪」として各巻名となっている地・水・火・風・空は仏教用語である。一説には、五輪書には原本が無く、また後世の価値観に基づいた記述が見られるとの指摘もあり、偽書ではないかと唱える者もいる。
そして、佐々木小次郎との決闘である巌流島の戦いについても不穏な説が存在している。門司城代沼田延元の子孫が編集した『沼田家記』(1672)の記述には、武蔵が大勢の弟子を率いて小次郎を打ち破ったとあるという。また、熊本藩の家老で豊田景英が著した武蔵の伝記『二天記』に基づいて計算すると、巌流島の戦いでの佐々木小次郎は老人であり、武蔵と40もの歳の差があった可能性すら出てくるのだ。
武蔵は江戸にも修行に来ていたそうだが、江戸で剣豪と呼ばれた者とは試合をしなかったと言われている。このため、武蔵は勝てる相手としか戦わなかったのではないかとも考えられている。当時、戦国時代こそ終わっていたが、剣の腕が確かであれば出世も可能なムードであったという。
これら武蔵による一連の記述や行動は、自分の腕を売り込むために誇張したアピールだったのかもしれない。
【参考記事・文献】
山口敏太郎『日本史の都市伝説』
歴史の謎研究会『日本史に消えた怪人』
五輪書は偽物?宮本武蔵が作ったのは嘘?そんなよくある疑問に答えました
https://nitenichiryu-tokyo.online/miyamoto-musashi-gorinsho/
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(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 Yoshifusa Utagawa (active ca. 1840-1860) – Artelino , パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86540179による