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日本に存在したスパイ養成学校!!恐るべき「陸軍中野学校」

陸軍中野学校は、戦前に存在していた日本の「秘密工作員養成機関」である。その存在は、当時の陸軍内では、「軍事調査部」「東部第三十三部隊」などの秘匿名で呼ばれていたため、軍内部でも極秘扱いされていた。

日中戦争以後、国際関係を緊迫化させた日本において積極的な諜報活動の本格化を進めるために、軍人であった岩畔豪雄中佐の意見によってスパイ養成学校の創設が持ち上がった。

1938年に陸軍の本格的な諜報員養成所として設立された「後方勤務要員養成所」を前身として、1939年に「陸軍中野学校」が名称変更とともに誕生した。第1期の入学者は20人弱であったが、廃校までの卒業生は2000人を超えると言われている。終戦後もおよそ30年に渡りフィリピンのジャングルに潜伏していたことでも知られる、小野田少尉も陸軍中野学校(二俣分校)の卒業生の一人である。

陸軍中野学校は、大学の卒業者や予備士官学校で学んだ人間が主に推薦で集められ、陸軍士官学校などの純粋な軍人は少なかったという。内容的には、国体学をはじめとして格闘術、「最後の忍者」と呼ばれた藤田西湖を招いての忍術講義や歌舞伎役者による変装の講義も行なわれたという。

制服ではなく背広での活動、庶民の流行も把握し、「天皇」と言う言葉に反応して気を付けの姿勢をしてはいけないなど、諜報活動において民間に紛れ込むことを想定し、軍人らしからぬ軍人として養成されていった。




日米開戦をきっかけとして、「遊撃戦要員」というゲリラ戦の指揮官などの養成に重きを置くようになり、沖縄や台湾などが占領された際に現地に残って工作を行なうための「離島残置諜者」の育成も開始された。多くの人材育成を要するために、静岡県に陸軍中野学校二俣分校も創立され、また空襲の激化の伴い中野にある本校も群馬県に疎開することとなった。そして日本国の敗戦とともに廃校となり、校舎や資料は火を放たれその歴史に幕を下ろした。

陸軍中野学校の卒業生は、戦後も潜入した地に残った者も多かったという。その中で、北朝鮮の工作活動が陸軍中野学校の諜報技術に似ていると囁かれ、北朝鮮に中野学校の技術が伝わったのではないかと言われている。北朝鮮の元工作員の証言によれば、日本で制作された映画『陸軍中野学校』が教材になっていたという。

さらには、北朝鮮を創ったのは陸軍中野学校を卒業した人間ではないかとも言われており、第二代最高指導者であった金正日の正体は、卒業生である畑中理という陸軍軍人だったのではないかという説まである。

また、陸軍中野学校は同時期に存在していた「昭和通商」という商社とも密接に関わっていたと言われている。この会社は、軍備増強のために現地派遣軍へ物資の蒐集に協力することを仕事としていた。設立の主導者は、陸軍中野学校の創設のきっかけともなった岩畔豪雄(当時大尉)であり、その社員は陸軍中野学校の諜報員だったとされている。陸軍中野学校の卒業生が商社マンに身分を欺騙することで情報活動を行なうことができるという利点もあったと考えられているだろう。ただし、この会社は阿片や金塊の密輸といった裏ビジネスも行なわれていた国策会社だったとも言われている。

今なお多くの謎を秘めた陸軍中野学校であるが、今後の日本を見通す上でも避けて通れない歴史の一つであることは確かだろう。

【参考記事・文献】
・山本武利『陸軍中野学校』
・斎藤充功『陸軍中野学校』
・北朝鮮スパイと「陸軍中野学校」を結ぶ点と線
https://toyokeizai.net/articles/-/161968?page=4

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(にぅま 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用