日本を代表する大量殺人事件といえば「津山三十人殺し」だが、この事件が報道された当時は「岡山県下の鬼熊」と呼ばれていた。
その呼び名の元となったのが、大正時代に起き日本中で注目を集めた大量殺人事件「鬼熊事件」だった。
事件は1926(大正15)年8月20日に起きた。
千葉県香取郡久賀村(現多古町)の馬車匹であった岩淵熊次郎はきっぷが良く義理堅い性格であったが、直情的な性質でもあった。そんな彼は村に流れ着いて小料理屋を営業していた吉沢けいという女性と深い仲になる。しかし、けいは浮気症で村の別の男性、菅原寅松とも付き合うようになり、腹を立てた熊次郎は暴れて二人に暴行し、逮捕される。
この時は村の有力者のとりなしもあり、熊次郎には執行猶予がついて釈放となったのだが、彼がけいの店で飲み始めてから風向きが変わった。けいが熊次郎の罪状を警察に通報した男の名前を出し、店に恋敵の寅松が出てきたことで怒りに火が付き、熊次郎は二人に襲いかかった。
二人は逃げ出したものの、けいは店の外で熊次郎に薪で頭を複数回殴られて殺害。熊次郎は寅松を追って彼の家まで行くが、留守と分かって家に火を付けた。家事に駆けつけた消防隊にも鍬で殴りかかって負傷させ、その後も逆恨みで村人を殺害し山に逃げ込んだ。
それから43日間、熊次郎は山に潜んで寅松らへの復讐を企てる。勿論、警察も包囲網を組んでいたが、地元故に地理に長けていた熊次郎は包囲を何度も突破した。
このニュースは当時の日本で大々的に取り上げられ、多くの人々の関心を呼んだ。中には自分が捕まえるとやって来た力自慢の者や、彼を説得するために僧侶の一団がやって来る程だった。
だが、熊次郎は山中で自害する。その前に彼はインタビューに成功した「東京日日新聞社」の記者に一部始終を語っている。後にカミソリで首を切ったり、首を吊ったりしたが死にきれず、彼は兄の元に行って服毒自殺した。
彼が長い間逃げる事が出来たのは、彼の人となりを知っていた人物が村に多くいたことによるとみられている。勿論、彼が行ったのは凶悪犯罪であったのだが、その背景を知っている村の人々は何とかして事件を収めたいと思っていたのではないだろうか。
(田中尚 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)