マタ・ハリは、19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスでダンサー、ストリッパーとして活躍した女性である。彼女の名前は、特に「女スパイ」の代名詞として知られており、当時勃発した第一次世界大戦で深刻な被害をもたらした人物として捕らえられ処刑された。
マタ・ハリ、本名マルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレは、オランダの裕福な家庭に生まれたが、のちに父親が石油投資に失敗し一家離散となった。彼女は生まれつき黒髪に太い眉毛という東洋人のような風貌であり、それが神秘的・魅力的に映ったのか周囲からも珍しげに見られることが多かった。幼稚園教諭として勉強していた頃には、学長と関係を持ったという話が広まり、学長自身の保身から退学処分されたと言われている。
結婚して夫の駐留地であるジャワへ移り住んだが7年後に離婚、仕事探しをする中で友人のパーティに余興で招かれ、見よう見まねのジャワ舞踊を披露して大評判となり、このことがきっかけでダンサーの話が持ちかけられることとなった。また彼女は高級娼婦(クルチザンヌ)としても知られるようになり、それらによって生計を立てていた。この頃にマレー語あるいはインドネシア語の「太陽」を意味する「マタ・ハリ」と名乗るようになったのである。
スパイとしての彼女のきっかけは第一次大戦が迫る頃。イギリス情報部が、パリやベルリンを行き来する彼女をドイツのスパイと疑っていたというのだ。そんな中、フランス陸軍大尉ジョルジュ・ラドゥーが彼女にフランスのスパイになれと持ち掛けた。ドイツの外交官や軍人を色仕掛けで誘惑し、ベッドの中で重大な情報を聞き出そうとする試みは、ここから始まったとされている。
マタ・ハリのこうしたスパイ行動は有名であるが、実際に彼女が入手した情報は、ほとんど役立つものが無かったと言われている。しかも、ドイツがフランスに読まれることを予想して流した偽情報をつかまされることが多く、ラドゥーはそれに引っかかってしまうこととなった。
1917年にマタ・ハリは逮捕されたが、それはドイツから偽情報をつかまされてしまったというフランスの戦局での失態を全て彼女の罪としてなすり付けるためのものであったと言われている。
彼女が本当に「スパイ」とみなしてよい存在であったかは現在でも疑問視されており、スパイ史においては否定的にみなされていると言われている。ラッセル・ウォーレン・ハウは、自著『マタ・ハリ 抹殺された女スパイの謎』の中で、これまで彼女がどれほどデタラメに書かれてきたかを評伝している。現在において、彼女はフランス軍が失態を隠蔽するために仕立て上げられたスケープゴートにすぎなかったというのが有力になりつつある。
彼女の逸話の中に、銃殺刑の執行直前に、執行人たちに向かって笑顔で投げキスをしたというものがある。女スパイとしての彼女の人物像を強く象徴する逸話でもあるが、この話が本当であったとして、その笑顔の意味は実のところ別にあったのではないだろうか。
彼女の人生は栄光を得たものもあるが、それはわずかな期間での話である。現実での救済が得られないことを、彼女はすでにどこかで悟っていたのかもしれない。処刑は彼女にとっても理不尽な結末であっただろうが、死後どのような形であれ自身の存在が語り継がれていくであろうことに確信を得た彼女は、これを最後の救済と見なしそのことに安堵して笑顔となったのだろうか。
そう思うと、なんとも居た堪れないものだ。
【参考記事・文献】
・海野弘『スパイの世界史』
・マタ・ハリとはどんな人?生涯・年表まとめ【スパイの逸話や伝説も紹介】
https://rekisiru.com/11204
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(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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