四代目鶴屋南北は、江戸時代に活躍した歌舞伎・狂言作家であり、1825年に江戸中村座で初演された彼の作品『東海道四谷怪談』は、現代でも語り継がれる怪談として広く知られている。
1776年、22歳のころに作家を目指して芝居の世界へ入った南北であるが、そこから1803年に至るおよそ27年もの間、日の目を見ることはなかった。この年数は、同時代の他の作家と比べてもおよそ倍の年月がかかっていることになる。
彼のこのあまりに出世が送れた原因には、彼が本を読むことを嫌っており文字の知識に乏しかったという説も挙げられているが、非常に大きな影響を及ぼしていたのは彼の出自に関わっていたと言われている。
彼は、紺屋いわゆる染物屋を営んでいた家に生まれたのだが、当時染物屋は賤民(せんみん)とみなされ差別されていたのだ。この時代、染物屋の一種である青屋であった人々が、断罪人の処理や牢屋の番を任されていた。紺屋はそもそも、青屋と区別するために名前を変えて現れたのだが、染物屋が処刑の現場いわばケガレと関わっているという印象が強まっていたのたため、これが南北の出世の遅れに最も影響を及ぼしていたとされている。
1791年、江戸北町奉行の答申によって賤民から切り離されるようになったことで、彼はやっと注目を集めるようになった。
『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』は、大きな話題となって好評を得たことで、彼の最初の出世作となる作品となったが、この時の彼の熱量はすさまじく「スターシステムの採用」「早替りやからくりなどの多用」「幽霊といった他界や異界の存在の登用」など、のちの彼の作品を象徴する戦略がすでにここで備わっていた。
また、水中の早替りがキリシタンの魔術を扱っているのではないかという噂が立ち、町奉行所が調査する騒動にまで発展したという。結局、問題なしと判断されたことでますます彼の評判は高まることとなったが、この騒動も彼の宣伝戦略だったのではないかとも言われている。
彼の作品でもう一つ特徴的なのは、四谷怪談のほか『彩入御伽艸(いろいりおとぎぞうし)』などの怪談における幽霊の立場である。それまでの幽霊は、当時流行していた都市伝説「皿屋敷」に見られるように恐ろしさと哀れさ、特に哀れさに重きを置いた存在として描かれていた。しかし、南北の描く幽霊は圧倒的に恐れが勝っており、加害者に対する報復も徹底したものとなっていた。
彼の作品は、世間的な道徳や倫理に収まらないものであり、善悪の思想を超えて人間の本能を自然の営みとして描くのが特徴であった。彼の生きた時代すなわち化政文化は、雅俗や身分階級などが融合しボーダーレス化した、良く言えば個性の強まった時代でもあった。
彼は、その出自から時代の波に翻弄され、かつ晩年は新しい時代の象徴をも決定づけた稀有な作家であったことは間違いないだろう。
【参考記事・文献】
・山口敏太郎『日本史の都市伝説』
・諏訪春雄『日本史リブレット人064 鶴屋南北』
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(にぅま 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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