これは1964年12月21日、宮城県仙台市で発生した事件だ。
市内に住む資産家の家へと一本の電話がかかってきた。電話の内容は「私はあなたの息子の智則くん(仮名)の通っている幼稚園のものだが、本日エミール神父が来日してくるので記念写真が撮りたい。すぐ幼稚園の校庭まで来て欲しい」というものだった。
この電話を受けて、智則くんはエミール神父に会うため、たった一人で自宅から約100m離れた幼稚園へ向かった。しかし夕方5時になっても智則くんは帰ってこなかった。心配になった家族が幼稚園へ問い合わせたところエミール神父なる人物は存在しないことがわかった。
当然、大騒ぎとなった家族は、誘拐事件として警察へ届け出た。
その約15分後、智則くんの自宅へ今度は不審な男の声で電話がかかってきた。電話は「子供を預かっている。返してほしくければ500万円(現在の価値で約5000万円くらい)を用意して、所定の場所まで歩いてこい」という内容だった。
家族は現金を持って、夜8時に犯人の指定する場所へ向かう約束をした。
しかし、家族は定刻を過ぎても指定の場所に行くことはなかった。このことから犯人は再び家族の自宅へと電話した。実は家族が時間通りに現場まで向かわなかったのは警察側の陽動作戦で、焦った犯人からの再度の電話に逆探知をしかけ、犯人の居場所を明確にする計画だったという。
警察のこの作戦は見事に成功した。
犯人は家族の自宅から約700メートルの至近距離にある電話ボックスから電話をかけていることが逆探知から判明し、警察官約900名が近辺へ張り込んだ。そして、家族は予定通りに囮となり、犯人が現金を強奪したところへと900名の警官が全員で一斉に飛びかかり、あえなく現行犯逮捕となった。
ところが、悲劇は既に起こっていたのである。
智則くんは犯人に首を絞められて殺害された後であり、死骸は犯人の自宅物置に破棄されていた。また警察の調べによると、智則くんを殺した犯人は車興吉といい、かつて多くの映画作品に出演した天津七三郎という芸名の元俳優であったことがわかったのだ。
天津は1956年に新東宝の二枚目俳優としてデビューした期待の若手で、『天皇・皇后と日清戦争』『旗本愚連隊』といった当時の話題作に脇役として多数出演したほか、事件を起こす2年前(1962年)にはカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した、『切腹』にも出演していた。
ところが次第に俳優としての仕事は無くなり、出身地である仙台へ帰郷。徐々に借金まみれの生活となり、地元の資産家の息子である智則くんを誘拐する作戦を思いついたという。
幼児を誘拐して殺害するというあまりに悪質な事件だったために最高裁は天津に対し死刑を宣告。事件から約10年後の1974年7月、天津七三郎は仙台拘置所で遂に死刑執行となった。
昭和の芸能史のなかで殺人事件を起こした俳優は数人存在するが、死刑になった俳優は彼ひとりであり、「天津七三郎」の名前は凶悪な殺人俳優として昭和の芸能史に記録されている。
(文:穂積昭雪 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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