剣豪・宮本武蔵が船橋に来たという伝説について、実は昭和に作られたエピソードがまるで数百年の歴史がある伝承のように一人歩きしていたことについて語った。
まあとかく伝説とは、創作が定着したり、事実が湾曲して伝承されたりして後世に残っていくものだから、これはこれで民俗学的にはOKであろう。(歴史学として問題だが…(苦笑))
多分もこれは筆者の推測だが、藤原玄信という人物の伝説は、元々藤原新田周辺に元々あったものだろう。その既成の伝承に、巧妙に武蔵伝説が練り込まれていき、新しい20世紀の伝説ができてしまったのだと思える。
だって滝沢馬琴の小説「里見八犬伝」の創作エピソード伏姫がくらしたほら穴さえ、現代では現実に存在する。これなども、明治・大正あたりに、小説から伝説が創作されたのであろう。
元々、吉川英治は一年予定で『宮本武蔵』を連載していたが、大評判となり、新聞社から連載を3年間に延長されてしまった。そこで本来は関ヶ原より、東に行った事がない武蔵を関東まで旅をさせたのだ。吉川英治の創作により、武蔵は中山道をめぐり、吉原で遊ぶ。そして、船橋ほ法典ケ原で夜盗と戦う事になるのだ。
当初、習志野ケ原で武蔵が夜盗と戦うというストーリーを吉川は考えていたらしいが、習志野という地名が明治以降に成立した名前と聞き、法典ケ原という架空の地名をつくりだしたのだ。
ところが、後から本当に「船橋法典」という地名ができてしまった。事実が小説に追いついたわけである。
事実は小説より、奇なりとはこの事である。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像『宮本武蔵(一) (新潮文庫)』表紙より