多くの戦国武将には武者伝説が付きまとう。有名なのは武田信玄の影武者伝説である。
他にも筒井順慶の父・筒井順昭が死んだ時、本人の遺言もあり家中の協議の上で三年間その死を公表しないという事になった。そして、順昭と容姿も声もそっくりな木阿弥なる盲目の人物が影武者として立てられた。
この影武者は三年間見事に筒井順昭を演じきり、嫡男の筒井順慶に橋渡しを成し遂げた。その後、木阿弥は再び庶民の生活に戻っていったという。この故事から、元の木阿弥という言葉が出来たと言われているが、些か出来過ぎの感がある。だが、エピソードとしては面白い。他にも三好長慶の死が三年間伏せられており、三年間武将の死を伏せるというのは信玄のエピソードも含め、よくあることであったのかもしれない。
天下人・徳川家康にも影武者伝説はささやかれている。実は家康は死んでおり、途中から世良田次郎三郎という人物が家康を演じたという説がある。
その影武者との入れ変わりの時期に関しては諸説ある。桶狭間の戦いから数年後、松平元康は無事に今川家の支配から独立したが、家臣によって討たれてしまい影武者に入れ替わったとも、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康が討たれてしまい、影武者が徳川家康を演じ続けたとも、大阪夏の陣において真田の猛攻により討たれてしまい影武者と入れ替わったとも言われている。
確かに不審な点は幾つかある。もし松平信康時代に入れ替わっていたとすれば、長男である信康の切腹も平気で命じたであろうし、後に結城秀康や徳川秀忠になる実子たちのためにも信康を始末したくなる気持ちもわからなくもない。
さらに家康と徳川秀忠は親子にも拘わらず晩年は不仲であった。これが赤の他人であったとしたら納得がいく。それと関連して、筆者が事務所を構える船橋にかつて存在していた船橋御殿(船橋東照宮付近、東金の鷹狩にいく際、家康が何度が宿泊した)に家康が宿泊した際に不審火が出ており、秀忠の間者が家康暗殺を狙ったのだという伝承が残されている。
また筆者も数年前に取材に行ったのだが、堺の南宗寺には「家康の墓」と称される史跡がある。勿論、これは近代において関西系の企業家たちが建立したものであり、当時のものではないのだが、もとになった文書はある。『堺鑑』には家康が討たれたという記事があり、寺そのものにも徳川秀忠や徳川家光が墓参りに来た時に、収めた奉納物が残されているという。二代、三代の徳川将軍がまったく縁もゆかりも無い堺の寺に参拝に来るであろうか。やはり、南宗寺には大阪で討たれた家康の魂が眠っているのであろうか。
この家康の影武者説は1902年(明治35年)に村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版してからブームとなり、戦後は隆慶一郎の『影武者徳川家康』や、同作品を原作としたコミックで一般に広がった。
ちなみに筆者は家康はひょっとしたら、三回とも殺されているのではないかという妄想を抱いている。松平元康時代にも殺され、関ケ原でも殺され、大阪夏の陣でも殺され、最後は老衰でも死んだ。つまり、家康を演じた人物は本物・影武者合わせて合計四人もいるのではないだろうか。”徳川家康”とは、ある種のプロジェクトチーム名だとしたら、なんと楽しいことだろうか。筆者は本物は夏の陣で死んでおり、あとは影武者であったとしたらどうだろうと思っている。無論、これは真剣な仮説ではない。あくまで小説のタネである。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)