源頼政は、父は源仲政、母は藤原友実の娘に間に生まれた。彼がのし上がるのには、二つの乱を経なければならなかった。1156年の保元の乱において、後白河天皇につき見事勝利を納める。
1159年の平治の乱では一度は源義朝に属するが、突如裏切り、平清盛に味方する。その後、正四位であった頼政は清盛にさりげなく昇進を要求する。
「のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな」
清盛はこの機転のきいた和歌を危機、74歳の頼政を三位に昇進させた。このような高齢での昇進は異例であったという。かれこれ源氏を裏切ってから、19年が経過していた。その後、治承4年(1180年)5月26日の事である。一族を裏切ってまで使えた清盛に対して頼政は反旗を翻す。77歳の反乱であった。
その理由は「平家物語」に詳しい。
頼政の嫡男である仲綱が、評判の名馬を持っていた。ところがその名馬を平宗盛に所望され、半ば強引に取り上げられてしまった。しかも、なかなか馬を引き渡さなかった事へのいやがらせだろうか。その馬に「仲綱」という名前までもつけられてしまったという。つまり、頼政はこのような辱めを受けたため謀反を起こしたのだ。
同じ頃、皇族さえも蔑ろにする平家の横暴に嫌気がさしていたのが、以仁王であった。そこで源頼政は彼をかつぎ、老体にむち打って打倒平家の挙兵をしたのである。だが計画は露見し、平家の平知盛、平重衡、平維盛らによって頼政軍は追われ、宇治平等院付近で一行に追いつかれ、宇治川で合戦となった。
しかし、多勢に無勢。しかも、予想以上に早く計画が漏れた為、地方にいる源氏の援軍も間に合わず、頼政の自害に及んでしまう。
さて次に千葉と頼政の関連に移るが、この時、頼政に付き従っていたのが、千葉介常胤の子で僧籍にあった日胤である。日胤は宇治で戦死し、千葉常一族は下総国印旛郡へ移り、日胤の供養の為に円城寺を建立された。この事から、本来宇治にあるはずの頼政の首が印旛にあると語られたのかもしれない。また名馬の塚も、頼政の息子・仲綱の気持ちを思いやり、後世の人が創り上げたのかもしれない。
また平家によって殺害された我が子・日胤を殺された千葉常胤はどのような心境であったろうか。間違いなく平家憎しの気持ちがつのった事であろう。その後、千葉常胤が石橋山の戦いで破れた源頼朝の(千葉県での)再起を支援し、頼朝軍の中核となっていくのである。子の命を奪われし千葉常胤の怨念、そして打倒・平家に立ち上がった頼政の無念。彼らの想いが頼朝に集約し、打倒・平家へ歴史が流れていくのだ。
奢れる平氏も久しからず!この屈辱、生涯忘れまじ。
(監修:山口敏太郎)
画像は『平家物語 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集09) 』表紙より