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折口信夫が宿泊、柳田國男も注目!実在した”隠れ里”浜松の京丸!!

 「隠れ里」とは、人里離れた場所に存在し、時折迷い込む人々をそのまま取り込んだり、福を与えたりする異界である。浄土や竜宮のように遠くにある異界ではなく、人間が生活を営む里のすぐそばに存在すると解釈された異界であった。
 また「山家」という山中にある不思議な一軒家も里人に福を与えると解釈され、迷いこんだ者が何か一つ家財道具を持ち出すと幸せになれると言われた。

 この人々が憧れた身近に異界「隠れ里」は実在したのであろうか。実はまるで昔話のような話が現実に存在するのだ。




 中国には「女人村」という「隠れ里」や「桃源郷」のモデルが実在するという。四川省と雲南省の境目に住むある部族の家庭には、お父さんがいないのだ。ここには瀘沽湖湖畔にはね摩梭(モソ族)と呼ばれる少数民族が住んでいる。
 この少数民族は、1500年間も女系家族制度を維持しており、男が夜に妻に通う”妻問い婚”習俗が守られてきた地球最後の『女人国』として世界中から注目が集まっている。

 この”妻問い婚”とは、平安時代頃までは、我が国でも盛んに行われた。夜間に男が女の家を訪れ、明け方に帰宅する習慣であり、男は自分の子供を育てず、実家で同居する自分の兄弟である姉妹や、家の女たちが生んだ甥、姪に対して責任を持つという結婚スタイルである。
 他にも中国貴州省安順市という場所には洞窟の中に村があり、その存在は近隣の村に知られていなかった。 この洞窟の中の村は、「中洞村(Tajing村)」という名称であり、ミャオ族(苗族)によって営まれている。

 当然、日本にも「隠れ里」のモデルと言うべき集落が実在する。静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸にある”京丸(きょうまる)の里”は、犬居川上流に実際に存在したとされる隠れ里である。享保年間の洪水の際に、増水した川上から椀や膳が流れてきたことにより発覚した。

 このあたり、まるで昔話のようだが、それまではこの里の存在は知られることがなかった。民俗学者の折口信夫は、大正9年(当時は十戸あまりの集落)この里にある藤原本家に宿泊し調査を行い、折口の師匠である柳田国男もこの里に注目し、明治の識者から仙境、秘境視された。

 60年に一回(7年毎、十年毎とも)笠のように巨大な牡丹が咲くと言われており、昭和以降の近代に生きた里人の中にも、この伝説の牡丹を見たことがあるらしい。この牡丹には、この里に迷い込んだ余所者の若者と里の娘の愛が里人によって引き裂かれたという悲哀伝説が残されており、遠州七不思議のひとつに数えられている。実はこの里には、余所者と一緒になれないという因習があり、悲嘆したふたりが死後、大きな牡丹になったと伝えられているのだ。




 この京丸の里の始まりは、南北朝の頃、藤原左衛門佐が移りすんだのに始まると言われており、住民の大部分は藤原姓を名乗り、慶長年間には戸数20余りを数えたとされている。近年は 藤原本家の藤原忠教(ただのり)さんはたった1人になっていたが、今は近隣に移られたという。

 南朝の隠れ御所があったのではないかというのは、他では小俣の里や高塚山がある。京丸の里も南朝ネットワークのひとつだったのかもしれない。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)

※画像はイメージ写真