昨今、再び日ユ同祖論が浮上してきている。それは、古代日本に失われた十支族(ユダヤ人)が流入したというものだ。中東のエルサレム周辺に居住していたユダヤ人は、ヨーロッパに大部分移住したと思われがちだが、実は行方のわからない支族が存在するのだ。
古代イスラエル王国は紀元前1021年に建国された。その後、イスラエルは南北に分裂し、紀元前581年に両国とも滅亡する。当時、古代イスラエル王国には12支族が存在していたが、その内10支族が国外へと逃れ、姿を消した。十支族の一部は、シルクロードを経て、アジア中に散っていった。事実、古代中国にはペルシャ人(今のイラン人)やヨーロッパ人が居住しており、ユダヤ人も住んでいた。故に、ユダヤ人が日本に来ていてもなんらおかしい事ではない。
さらに、興味深い事実が残されている。秦氏というものを、ご存知であろうか。歴史の教科書などにも出てくる、朝鮮半島から来たとされる渡来人である。しかしながら、新選姓氏禄という古文書の中には、彼らはシルクロードの果てから来たと記されており、ユダヤ人と目されているのだ。アジア中に散らばった十支族の者達が、朝鮮を経由して日本に渡来したのではないか、と推測されるのだ。
次に秦氏と関連が深い広隆寺は秦公寺(ハタキミデラ)と呼ばれており、古代よりユダヤの寺と認識されている。現に境内には三角鳥居があるのだが、これは上から見るとユダヤの紋章であるダビデの星に見えるのだ。また同寺の敷地の隣接地にはイサライ(=イスラエル?)という井戸が現存する。このイサライという言葉は、イスラエルを意味しているのではないだろうか。また、広隆寺の牛祭りで使用されるお面は鼻が高く、彫りの深い顔であり、とても日本人とは思えないのだ。
また、広隆寺の守護神でもある大酒神社(=大辟神社)はダビデを奉った神社とも言われている。さらに、京都にある大避神社には秦氏の族長、秦河勝が彫ったお面があるのだが、鼻が高くかぎ鼻で、彫りの深い顔をしている。これはどう見ても、アジア系民族の顔つきではない。いや、そもそもローマ帝国の首都ローマを大秦と漢字表記していた当時、秦氏の本拠地を太秦と名づけた事も意味がある。ローマからやってきた人々の居住地であった、と判断するのが妥当ではないか。
他にも、古代日本にユダヤ人が渡来したというような証拠が幾つかある。まずは京都で行われる祇園祭。この祭りで使われる神輿を見て何か違和感を感じた事はないだろうか。なんと、神輿の側面に描かれているものに、砂漠の中にあるピラミッドの絵や、ラクダの絵があるのだ!さらには、驚くべき事に旧約聖書創世記第24章にある「イサクの嫁選び」というエピソードを彷彿させる絵が記されている。
また、祭事の日程も日本とユダヤで奇妙な一致点がある。祇園祭が行われるのは7月中なのだが、それがユダヤのシオン祭と行われる日とまったく同じなのだ。また、山鉾巡行が行われる7月17日とは、旧約聖書創世記第8章によるとノアの箱舟がアララトの山に止まった日であると記されている。これは何を意味するのか。
また、ユダヤ民族と思われる秦氏を後ろ盾にした聖徳太子には、イエス・キリストの伝承と一致する点がある。まず、二人とも不思議な力を使ったという点である。また、聖徳太子は厩戸(馬小屋)の前で出生したと言われる伝説がある。これは、マリアがキリストを馬小屋の前で生んだという伝承と同じである。更に、キリストは大工の息子に生まれているが、一方日本では、大工たちの間で古来より 太子講(聖徳太子を崇める信仰者の集り)が各地で開催されてきた。
これは聖徳太子が大工の祖であるという考えが古来よりあり、大工関係者の間で太子講が盛んであったからである。つまり、キリストと聖徳太子の共通項は、「超能力」「馬小屋が生誕の地である」「大工に関連が深い」という三点があげられるのだ。つまり、キリスト伝承から聖徳太子伝説が生み出された可能性がある。
これらの事象から「秦氏がユダヤ人であった」、という理論は信憑性を持つのではないかと考えられる。いや、ユダヤ人が古代日本に渡来していたとしか思えないのだ。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)