農民の生まれでありながら、天下を統一した豊臣秀吉。その偉業は今も歴史に燦然と輝いており、筆者が子供の頃の総理大臣・田中角栄は”今太閤”と綽名されたほどである。因みに秀吉の綽名は一般的に「猿」と認識されているが、実際にはネズミに似ていたようで信長からは「はげねずみ」と呼ばれている。また、聊か異聞に属する話ではあるが、指が六本あったという話も残されており、信長からは「六つ」という綽名でも呼ばれていた。
この秀吉だが従来のイメージでは貧しい農家の生まれということになっているが、本当に農民であったのだろうか。筆者は秀吉は狩猟や採集生活を送りながら、山から山に移動した”山の民”の出身ではないかと推測している。これらの”山の民”は江戸中期以降は「サンカ」とも呼ばれており、非定着の人々として律令国家の体制外にいた。彼らは”化外の民”とも呼ばれており、仲間には傀儡師や歩き巫女、巡回していく薬売りなどがおり、山の妖怪伝説のモデルになっている。彼らは戦国期に多くが山を下りて、忍者や武士として活躍しており、中には飛躍的な出世をする者も出ていた。
筆者は秀吉の出自が”山の民”ではないかのかと推測するには理由がある。それは異常なまでの機動力の速さと情報収集力、土木技術の確かさである。例えば、機動力に関して指摘すると”金ケ森の殿戦”での驚異的な奮戦、本能寺直後の”中国大返し”や賤ヶ岳の合戦での”大垣返し”の異常なスピードは当時の感覚ではありえない。
戦国期の人間も含めて、明治以前の日本人は走ることはあまり得意ではなかった。走る行為そのものは飛脚や伝令など専門業者の持つ”特異な技術”であり、武士も含めて現代人のような速さで移動することは出来なかった。
浅間山の噴火などが描かれた古文書を見ても、災害時に逃げ惑う人々は両手を上にあげたまま逃げている。左右の腕を前後に振って全速力で走ることは当然していない。そもそも本来の日本人は”ナンバ”と呼ばれる歩き方をしており、右手と右足、左手と左足を同時に前に出すような歩き方をしていた。相撲の足さばきは”ナンバ”を踏襲している。
現代のように誰もが早く走れるようになったのは明治以降にフランス式の体育教育の概念が導入されてからである。だが”山の民”の場合、戦国期から山道を全速力で駆けることが出来たらしく、場合によっては闇夜でさえも前方を杖で叩きながら山道を走り抜けたと言われている。この技術があれば十分に大返しも可能であろう。
また、秀吉の持つ土木技術も一流である。猪俣の一夜城築城は現代で言うところのプレハブ工法であり、川上である程度組み立てた部材を水運を使って運搬、現地ではそれを組み立てるだけであった。また高松城の水攻めや大阪城の建築は一流土木技術がないと到底出来るものではない。治水技術や石垣をくみ上げる知識など建築や土木に長けた人物が”山の民”には多くいたとされているが、秀吉配下の連中(加藤清正や福島正則)が山から下りてきた連中だったとすれば、納得がいくではないか。
そもそも秀吉の義理の父である竹阿弥からして、農民の名前ではなく遊行民であったことが伺える。このような父と婚姻できる母親もごく普通の農民であったとは思えない。それに晩年、秀吉は元々は高貴な人の血を引いていると主張していた。無論、これは秀吉が見栄をはるために作り上げた創作話だが、その背景には”山の民”に古来から伝承されてきた皇族や貴族の末裔であるという”貴種流離譚”の影響が伺える。
やはり、秀吉の背後には”山の民”の影が見え隠れしてしまう。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)