古史古伝に見る超古代王朝は多民族国家だったのか?

画像©YukiyoM photo AC

前方後円墳の形が暗示する大和朝廷成立の真実

 2019年7月6日、大阪府の百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録された。この4世紀後半~5世紀後半の古墳群で、最も有名なのはやはり日本最大の古墳・仁徳天皇陵だろう。

 仁徳天皇陵は前方後円墳と呼ばれる形をしており、大和朝廷の成り立ちにも関係するといわれる。この独特の形は、弥生時代の有力氏族の墳墓に見られる要素を合わせてできたスタイルとされ、そこから、大和朝廷は天皇が各氏族をまとめあげる形で平和裏に成立したと推測されているのだ。

 前方後円墳は大和朝廷が成立した3世紀後半頃に登場するが、その最古のものとされるのが、奈良県桜井市の箸墓古墳であり、これは邪馬台国の女王・卑弥呼の墳墓とも考えられている。

 そしてさらに、箸墓古墳のある纏向遺跡の地は邪馬台国の中心地であると同時に、邪馬台国の後継王朝としての大和朝廷の都でもあるという説がある。邪馬台国は「やまとこく」とも読めるので、それがそのまま大和朝廷に引き継がれたと考えるのは、確かに無理がない。


画像©Inushita photo AC




大和朝廷以前に七十代続いたという「ウガヤ朝」とは

 さて、その説が事実だったとして、大和朝廷がどのようにして平和裏に成立したのか、邪馬台国からの移行はどのように行われたのか、という点については不明なところが多い。そもそも大和朝廷のスタートとなる初代・神武天皇の存在からして謎めいている。

 日本の正史とされる古事記や日本書紀の記述を文字通りに受け取るなら、初代・神武天皇は紀元前660年に即位したことになるが、学術的には天皇が君主として大和朝廷を成立させたのは、先にも触れたように3世紀後半と考えられている。

 では、古事記や日本書紀の記録がでたらめかというと、そうとも言い切れない。当然、天皇家に都合のいい内容に編集されているだろうが、まったくのでたらめなら、作成された時点で有力氏族などから異議が申し立てられるはずだ。

 いずれにせよ、邪馬台国と大和朝廷の間の歴史には何かモヤがかかっていて、ある種のミッシングリンクとなっているのは確かである。

 そのミッシングリンクを解く鍵となるのが、時に偽史扱いもされる「古史古伝」と総称される歴史書の記述だ。それらは、有力氏族や古くから存在する神社に秘匿されてきた歴史書が、ある時点で表に出てきたものとされ、そのいくつかには、初代・神武天皇以前にウガヤ朝と呼ばれる天皇家の系譜が存在したと記されている。

 ウガヤ朝とは、神武天皇の父にあたる鵜萱葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)にちなむ名称であり、上記(ウエツフミ)、竹内文書、富士宮下文書、神伝上代天皇紀などの古史古伝では、鵜萱葺不合命に始まるウガヤ朝が七十代以上(富士宮下文書は五十一代)続いたとある。

 神武天皇の前ということになると、このウガヤ朝は邪馬台国のことを指すのかもしれないし、神武天皇がもともといた日向の地(現在の宮崎県)に栄えた王朝を指すのかもしれない。あるいは、本当に七十代も続いたのだとすれば、紀元前数十世紀も前の古代文明にまでさかのぼる話となってくる。

日本に超古代文明は栄えていたか?

 知られざるウガヤ朝の存在を伝える古史古伝の中でも、とりわけ長大なタイムスケールの歴史を語るのが竹内文書だ。

 それによると、天皇家とその祖先である皇祖神の系譜は大きく4つの時代に区分され、宇宙開闢の神皇・天地身一大神(アメツチヒトツノオオカミ)から天御光太陽貴王日大光日大神(アメミヒカリオオヒナカキオウヒオオテルヒオオカミ)までの「天神七代」、天日豊本葦牙気皇主身光天津日嗣天皇(アメヒノモトアシカビキミヌシミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト)からの「上古二五代」、武鵜草葺不合身光天津日嗣天皇(ウガヤフキアエズミヒカリアマツヒツギアメノスメラミコト)からの「不合(フキアエズ)朝七三代」、そして、神武天皇以降の「神倭(カンヤマト)期」という順になっている。

 そのうち、天神七代については六代までの各期間は不明とされ、気の遠くなるほどの年月ということらしい。次に上古二五代については一代100億年を超えることもあり合計で約3300億年、不合朝七三代は一代あたりの治世は短くなるが、それでも合計で約290万年だという。

 現在の科学では宇宙が誕生したのが138億年前というから、それより前の歴史を語る竹内文書は荒唐無稽というしかないが、竹内文書を肯定的にとらえる研究者の多くはあくまで象徴的な年数であると考えている。

 象徴的な年数と考える場合、その年数をより現実的な数値に変換することになり、上古二五代を約3万年、不合朝七三代を約8000年と考える説などがある。これはいわゆる超古代文明といっていい年代であり、竹内文書にならうなら日本にも超古代文明が栄えていたことになる。




超古代の日本は「和」でまとまる多民族国家だった?

 正直なところ、日本に超古代文明が栄えていたという物証は乏しい。これは、仮に超古代文明が存在していたとしても、緑豊かな土地ゆえに木造建築や木製の道具が中心となってしまうことに関係するかもしれない。

 そこで、ここでは物証により日本における超古代文明の存在を証明するというよりは、竹内文書の内容からその在り様を想像してみるにとどめたい。

 竹内文書によると、上古一代の天皇は世界最古の文字である神人神星人文字という51文字の象形仮名文字を作り、皇子たちを全世界に派遣して統治させ、その彼らが地球上の各人種となったという。

 各人種は五色の肌で分類されて「五色人」と呼ばれ、一説に、「赤人」はアメリカインディアンやユダヤ人やアラブ人、「黒人」はアフリカ人やインド人、「黄人」は日本人や中国人やモンゴル人、「青人」は北欧系やスラブ系、「白人」がヨーロッパ人とされている(青人をポリネシア人等とする説もある)。

 興味深いのは、この「五色人」とは竹内文書だけの記述ではなく、神道十三派のひとつ神理教の教えにも伝わるほか、熊本の古社・幣立神宮では「五色神面」という面が伝承され、「五色神祭」という祭りが行われていることだ。この「五色神祭」の5年に一度の大祭には五色人それぞれの代表として海外からもゲストが招かれるという。

 これらのことから、竹内文書の語る超古代文明はある種の多民族国家であったと考えられ、これはそのまま、大和朝廷が平和裏に成立されたことにも重なってくる。つまり、日本人と日本文化は超古代からずっと、文化や出自の違いによる断絶を「和」によって埋め、ひとつにまとめることに長けていたのではないだろうか。


画像©Siwamura/wikipedia

超古代天皇の世界巡幸と神武天皇の「八紘一宇」

 竹内文書によると、上古三代天皇からは天皇自らが空を自在に飛ぶ天空浮船(アメノウキフネ)に乗って世界巡幸を行い万民の声に耳を傾けたといい、世界を16方位に分けて統治を行った名残が、現在の皇室の紋章「日章菊形紋」のルーツとされる十六弁菊花紋であるという。

 事実、バビロンのイシュタル門、古代アッシリア帝国の遺跡ニムルドから出土した石像、古代エジプトのラムセス二世の妻の胸像、同じくエジプトのプスセンネス一世のミイラが履いていた黄金のサンダル、ツタンカーメン王のサンダル、アフリカ西部ベナンで発見された古代の石版、マヤの遺跡から発見された石像、そしてエルサレムの嘆きの壁など、世界各地の古代遺跡から十六弁菊花紋やそれに酷似したシンボルが数多く見つかっている。

 とはいえ、天空浮船を実際に空を飛ぶ船と考えるのは行き過ぎで、実際にはまるで空を飛ぶように海を渡る立派な船といったところではないだろうか。

 超古代の天皇が当時としては超高性能の船に乗って世界を巡幸したことで崇敬を集め、さまざまな肌色の人々が日本にやってきたと考えるのなら、十分にあり得る話だと思える。

 神武天皇の「八紘一宇」の勅令は、不幸にして先の大戦のスローガンとして用いられてしまったが、本来は、天地四方八方の果てにいたるまで、すべての民族が一軒の家に住むように仲良く暮らすことを意味しており、これこそが古来日本において最も大切にされてきた精神ではなかっただろうか。


画像©h**********************m photo AC

(神谷充彦 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

関連記事

最近の投稿

ページ上部へ戻る