「血の日曜日」と呼ばれる出来事はこれまでいくつも発生している。
1921年のアイルランド独立戦争中にダブリンで発生した市民や捕虜の殺害事件、1965年にアメリカのアラバマ州で公民権運動中に発生した警官隊による暴行事件、1972年にアイルランドで発生したデモ行進中の市民が軍の落下傘連隊に銃撃された事件、1991年にリトアニアで発生したソ連軍の軍事侵攻事件など、その名の通り日曜日に発生した流血事件や虐殺、弾圧事件にこの名称が多く用いられている。
その中で、血の日曜日事件と呼ばれた最も古いものとされているのは、1905年にロシアで発生したものだろう。
17世紀のピヨートル2世以来、世界でも有数の大国として知られたロシア帝国であるが、次第に産業革命を通じて近代国家へと突き進むヨーロッパ諸国の中で、古い農奴制度が残るような後進国的なポジションへと移っていくこととなった。
19世紀半ばに農奴制度は廃止されたものの、専制君主制はなおも維持されていたために農民の負担は重くのしかかり続け、また労働環境の悪化という不満が国民に蓄積されていく。
国内において、貴族や資本家の住むモスクワやサンクトペテルブルクと農地に暮らす農民との貧富の格差は、比べ物にならないほどであった。ニコライ2世が贅沢三昧の生活を送るその一方では、低い賃金による生活苦や、過酷な環境での労働を強いられていた農民や労働者で溢れかえっていた。
ロシアの財政を悪化させた大きな要因の一つは、戦争における敗北だった。
かのナポレオンも冬の寒さと焦土戦術で撃退し、対外戦争では負け知らずであったロシアも、クリミア戦争においては、終盤にオスマン帝国側についたイギリス・フランスなどのヨーロッパ主要国の前に敗れ、日露戦争では弱小とたかをくくった日本相手に最大の拠点である旅順を陥落させられ、バルチック艦隊も破れる始末。
生活の圧迫や日露戦争の戦局悪化が重なったことで、とうとう国民は我慢の限界に達し、ギリシャ正教の司祭であったガポンが主導し、ニコライ2世に対する請願デモが行なわれた。
この当時、まだ皇帝は神のような存在とされていたため、「ツァーリ(皇帝)の恩恵と慈悲によって労働者や農民の生活を良くして欲しい」というあくまで敵意の無い請願に留まっていた。暴動を起こすような雰囲気が無かったため、警察や軍隊すらこのデモを支持していたと言われている。
しかし、皇太子時代に斬りつけられた日本人とその日本に対する態度とは裏腹に、自国の民衆相手にはその感情もどこ吹く風。ニコライはすぐさま近衛兵にデモの鎮圧を命じ、近衛兵はデモの参加者に向かって銃撃し、なんと1000人以上の死傷者を出した。
幾たびの戦争での敗北と劣勢、暴力による鎮圧、これによってロシア皇帝の評価は地に落ち、溜まりに溜まった労働者の憎悪がついに爆発、こうして第一次ロシア革命が起こることとなった。
サンクトペテルブルクやモスクワではストライキや暴動が相次ぎ、政府によって弾圧されていたロシア社会民主労働党や社会革命党なども乗じて政府への犯行を強化させ、果ては黒海に配属されていた戦艦ポチョムキンにて水兵たちが反乱を起こして上官を殺害するなど、その規模は信じられないほどに拡大していった。
その後、日露戦争の敗北・終結に伴ってアメリカの仲介によりポーツマスにて講和会議が開かれ、ロシアは極東方面の利権の一切を失った。
ニコライは、これによって民衆の要望を一部聞き入れ、第一次ロシア革命も沈静化することとなった。だが、この時立憲政体を樹立するものの本格的に民主化が進められることはなく、およそ10年後の1917年、第二次ロシア革命によってついにロマノフ王朝の帝政は幕を閉じることとなった。
【参考記事・文献】
・https://nihonsi-jiten.com/chi-no-nichiyoubi-jiken/#i-4
・https://bushoojapan.com/world/russian/2019/01/22/13111
・https://www.y-history.net/appendix/wh1401-112.html
・https://www.y-history.net/appendix/wh1401-110.html
・https://www.y-history.net/appendix/wh1501-074.html
・https://x.gd/cOo1i
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画像 ウィキペディアより引用