事件

「服部半蔵」は部下の忍者部隊にストライキを起こされていた?!

服部半蔵といえば、伊賀忍者の元締めであり徳川家康に仕えた忍者として知られている。配下の忍者を引き連れ、特に機密事項を扱う際のやりとりは直接将軍と行なうなど、エリート官僚のような立場にあった。

さて、服部半蔵には「部下の忍者たちにストライキを起こされた」という逸話が残されている。イメージからは想像できないと思われるかもしれないが、実は、ここで取り上げるのは別の服部半蔵だ。

服部半蔵正就(まさなり)は、二代目服部半蔵正成の長男として生まれ、のちに三代目服部半蔵を継いだ人物である。ここで一つ余談であるが、一般に知られる服部半蔵は普通正成を指しているが、彼の父服部保長を初代とした場合は今述べた通り彼が二代目となる。

一方で、正成をして初代服部半蔵とした場合は、その長男である正就が二代目となることから、紹介される場面によっては彼が二代目と付記されることもある。

さて、この正就は短気でわがままであり、人望が無かったことで知られていた。彼は父親が高名であったことに加え、徳川家康の姪である松平定勝の娘を嫁にしたことで非常に自意識過剰な人物と化していった。

そうした中、1605年に彼の部下である忍者たちが、四谷長善寺に立て籠もるという事件が発生した。現代で言うところのストライキが起こったのだ。大きな趣旨は待遇改善と正就の支配役解任であり、ストライキは部下のほかその親族たちも加わり、およそ1000人もの規模で2ヶ月に渡りなされたと言われている。

これにより彼は役を解かれることになったのだが、そこで終わらないのが二代目。自身を陥れたとする騒動の首謀者10人の死罪を要求し、そのうち8人が処刑されたのだ。だが、そんな中で彼はとんでもないやらかしをしてしまった。

逃げた残りの2人を追った末、彼はそのうちの1人を切り捨てた。かと思ったら、なんとその切り捨てた相手は追っていた者とは全くの別人であったのだ。これによって、とうとう彼は完全に職を失うこととなり、幕府から追放されるに至った。

浪人となった彼はその後、妻の父である定勝のもとに召し預けられ、晴れて仕える身となった。1615年、名誉挽回を狙い大坂夏の陣に参加するも、最終決戦となる天王寺口の戦いにて姿を消してしまった。

消息を絶った彼については諸説あるが、汚名返上を果たせなかったことで戦死を装い逃亡し、農民として余生を過ごしたというものや、解任後も同心たちから目の敵にされていたことにより、成果を得て支配役に戻ることを恐れて暗殺されたというものもある。その末路については、ハッキリとしていないのが現状だ。

一方で、このストライキ騒動自体が、実は陰謀だったのではないかという説もある。

実は、ストライキの動機は正就個人の人柄や役職での振る舞いにあるのではなく、前任であった父の頃から服部家が支配役であることへの不満であったという話がある。さらには、そもそも配下の同心たちの中には、不義理で忠節に欠けるとされていた者も多く、金銭的な利益のためであればいかなる勢力にも就くといった無節操な部分を指摘されていたという。首謀者の死罪というのも、そうした者たちを牽制するために実際は幕府より指示されたものだったのではないかとも考えられている。

正就は、服部家を凋落させた元凶の人物として、創作物においても評価の良くない人物として描かれがちだ。だが、上記の通り服部半蔵ストライキ事件はどこまでが事実でどこまでが捏造あるいは創作であったのか、まだまだ謎めいた部分が多い。

今後の研究を待ちたいところである。

【参考記事・文献】
伊賀忍者の頭領、服部半蔵は部下の忍者部隊にストライキを起こされたことがある
https://x.gd/fFqpg
服部正就
https://dic.pixiv.net/a/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%B0%B1#h3_0
部下の忍者たちのストライキが発端で失脚した2代目服部半蔵。
https://ameblo.jp/k-714-yamasiina/entry-12024358549.html
忍者頭であり槍の達人 「鬼の半蔵」・服部正成
https://www.rekishijin.com/10819

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【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用