戦乱がおさまり、世の中が平定することによって忍者の活動は少なくなっていった。1637年の島原の乱は、幕府の老中松平信綱が甲賀忍者を率いて指揮にあたっていたが、この大規模一揆が忍者集団の最後の組織戦であったとされている。そして幕末、情報収集によって潜入するという職務を行なった、最後の忍者と呼ばれる人物がいた。
それは伊賀の忍者、澤村甚三郎保祐(じんざぶろうやすすけ)である。
甚三郎は、伊賀国の藤堂藩の領地で無足人として生活していた。無足人は名字帯刀を許され、武士に準じる者として農民と区別されていた。その生没については不明であるが、代々狼煙役の家柄であったという。
そんなある時甚三郎のもとに、藩主である藤堂高猷(たかゆき)の命が突如として舞い込んできた。1853年、浦賀沖に黒船が来航してきた。開国を強く迫るペリーに、幕府はただ困惑するしかなかったが、一旦親書を持たせて引き返してもらうことでやり過ごすしかなかった。『隠密用相勤候控』『澤村家由緒書』によれば、藩主高猷は再度来航する黒船への潜入を甚三郎に命じたというのである。
しかしながら、甚三郎の潜入はイメージするような忍者の装束ではなかったという。彼は、翌年に再び来航した黒船で行なわれるパーティ、その日本側から招待された60名の随行員の一人として訪れた。記録によると、パーティのほか船内では見学なども行なわれており、そこで甚三郎はパン2個、タバコ2葉、ロウソク2本そして紙片2枚と言ったものを入手したという。
ロウソクとタバコについては、開国後珍しいものではなくなった為、のちに紛失してしまったと言われており、その紙片というのも下級船員が書いたことわざやジョークが書かれたものにすぎなかったという。
実際に品物として得たものからすれば、そこまで変わったものは無かったものの、船員から様々に話は聞いていたはずであり、それこそ潜入によって得られた情報を藩主に報告したとは十分に考えられる。しかしながら、それがいかなる内容であったかは機密であるためか表に出ておらず、わからないままである。
彼は、最後の隠密行動をした忍者であると言われているが、それと同時にアメリカ人に接触した初めての忍者であっただろう。だが、上記の通りその隠密行動が実りあるものであったかどうかは定かではない。そもそもこの時期においては、忍者そのものの存在意義が薄れていた事実も見逃せないだろう。
伊賀では幕藩体制を通じて一揆騒動らしきものも起こっておらず、藤堂藩の下で、毎年「武芸一覧」という実地演習が催され研究の成果を発表されるというならわしがあったにすぎなかった。忍者という存在の終末を示す話として、甚三郎の話は注目に値するのだ。
【参考記事・文献】
戸部新十郎『忍者と忍術』
ペリーの黒船に忍び込んだ男!? 幕末最後の忍者、澤村甚三郎
https://mag.japaaan.com/archives/130819
幕末の伊賀忍者・沢村甚三郎とは?黒船に潜入した方法や入手したもの、メモの内容も紹介
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/86702/
戦の世に暗躍した伝説の忍者組織の役割と役職
https://wajikan.com/note/ninjya-soshiki/
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(ZENMAI 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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