藤圭子は、日本で活躍した演歌歌手である。1951年に岩手県で生を受け北海道で育ち、17歳のころさっぽろ雪まつりのステージで歌っていたところをスカウトされ歌手デビュー。その後、結婚や離婚を経て引退と復帰を繰り返していたが、娘の宇多田ヒカルのデビューを前後して休止状態となった。2013年には、都内の知人宅のあるタワーマンションの13階から転落し、62歳の若さでこの世を去った。
彼女は、幼い頃から特出した歌唱力を持っていたようであり、地域の祭りや集会があるとマイク無しで歌を披露し、それでお小遣いをもらっては喜んでいたという。地元で開かれた歌謡大会では、美空ひばりの「リンゴ追分」を熱唱し、見事優勝を勝ち取ったという。
1969年に「新宿の女」でデビューし、その後に発表された「桂子の夢は夜ひらく」は、当時安保闘争に敗れた若者たちから絶大な共感を呼んだことでヒットをした。小柄な体にも拘らず、レコーディングの際は星稜のメーターの針が異常に大きく揺れたと言われており、またしわがれ声に投げやりな歌唱は、「暗い怨念を秘めた」ような不思議な声だったと評され、エッセイスト五木寛之は「演歌でも援歌でもなく”怨歌”だ」と呼んだほどであったという。
彼女がそうした「怨歌」を生み出した背景には、たびたび語られる彼女のデビュー以前の実家生活が起因していたのかもしれない。流しの浪曲師であった父と、その相方を務めた目が不自由な三味線引きの母を持つ彼女の生活は、極貧であったと言われており、アパートは雨が降れば雨漏りがひどく、両親は仕事があれば数日帰ってこない日もあり、ご飯には醤油をかけて食べる日々であったという。
芸能リポーター石川敏男によると、ある時彼女が「ジャムパンを食べたい」ということを映画で共演した女優が聞いて買って与えたところ、「子供のころ食べたかったけれど食べられなかった」と言って泣き出したというエピソードもあったそうだ。
しかし、彼女のそうした健気さについては、一部売り出しのための”ドラマ作り”だったのではないかという話もある。彼女をスカウトした作詞家の石沢まさをは、「マイナスはプラスになる」として彼女の生い立ちを売り出しの材料としていたという。
デビュー間もないころの彼女のインタビューにて、「早く一人前になって両親のためにマイホームを建てたい」「つらく苦しい、涙が出るようなことがありました」などと回答していたこともあったようだが、これもいわば演出の一環であったと言われている。
のちに彼女自身が、「ぜいたくはできなかっただろうけど、別にお金に困ったことはなかった」と、悲劇を過激に売る”ドラマ”に反発するようになり、この頃は石坂自身も「藤圭子の時代は終わった」と語っていたという。
これだけでも、彼女が複雑な思いで人生を送っていたことは想像に難くない。1998年ごろのインタビューにて彼女は、「子どものころから歌が好きと思ったことは一度もなかった」「歌えなくなって初めて私は歌が好きだったと気がついた」と答えていたという。彼女にとって歌は生きるための術(すべ)であったというのが長年の信条であったことが伺える。
実際、彼女自身とあるインタビューにて「藤圭子はお金もうけのために、人からもらった歌を歌って」いた存在であり、「私はもう藤圭子でもなんでもない」と答えたという。
作られた栄光の自分と本音の自分とのあまりに大きな乖離が、彼女の人生に影響を及ぼしたことは確かだろう。彼女は、1970年代後半に一度引退と復帰をしているが、そのころ一時期「藤圭似子」という芸名で活動していたという。なぜ「似」という字を使用したかはわかっていないが、このことは境界の間で揺れ動く自分自身の表れを象徴していたのかもしれない。
【参考記事・文献】
「誰が見ても危ない状態だった」 藤圭子さん最後の映像
https://dot.asahi.com/articles/-/104070?page=1
【藤圭子】衝撃の死から10年 幼少期を過ごした北海道での極貧生活…彼女の「陰影」の原点に迫る
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/06241101/?all=1
転落死した藤圭子さん「貧困からスターダムへ」壮絶人生
https://dot.asahi.com/articles/-/104067?page=1
“怨歌”伝説に翻弄された宿命の歌手・藤圭子 「子どものころから歌が好きと思ったことは一度もなかった」
https://dot.asahi.com/articles/-/12422?page=1
【文 ZENMAI】