藤田信雄は、大分県豊後に生まれた帝国海軍の軍人である。日米が激しい戦争を繰り広げていた1942年9月に、伊号第二五潜水艦(伊25)から零式小型水上機によって飛び立ち、アメリカ合衆国史上唯一アメリカ本土を爆撃することに成功したパイロットとして知られている。
1941年12月8日未明に発生した真珠湾攻撃を皮切りに日米開戦は口火を切った。当初は日本軍優勢であったものの、心機一転を図るような作戦案が米軍内から検討され、日本本土への直接爆撃が採用されることとなった。これによって、1942年4月18日の「ドーリットル空襲」という本土爆撃が実行され、東京、横須賀、名古屋、神戸などが大きな被害を受けた。
このドーリットル空襲は日本軍に大きな衝撃を与えることとなったが、この報復として立案されたのがずばり「アメリカ本土爆撃」計画であった。そして、大敗を期した6月上旬のミッドウェー海戦によって苦境に立たされた日本軍により、起死回生を図るためいよいよアメリカ本土爆撃という計画が実行に移された。
白羽の矢が立った人物こそ藤田信雄だった。日本軍は、潜水艦で米国西海岸へ接近し、そこから格納されている水上機を飛ばして海岸地帯を爆撃し山火事を起こすという作戦でいた。この計画は同機に熟練したパイロットではければ任せられず、それに該当する評判を持っていたのが藤田だった。
しかし、指名された藤田本人は無事に生還できる自信が持てずにいた。日本と現地との間に燃料補給地は当然無く、なにより爆撃の際に米軍に感知されてしまっては一たまりもない。非常に困難な作戦であったことから、彼は遺書を書き残していたほどであったという。
伊25が日本から出発し1ヶ月の航海の末、アメリカ西海岸へ接近することができた。9月9日、水上機に乗り込んだ藤田は潜水艦から出撃し、オレゴン州の森林地帯に焼夷弾を落とし、また同月29日も同様に焼夷弾を投下して無事伊25へ帰還することができた。
3度目の出撃は悪天候のため中止されたが、結果として2度の爆撃に成功し、幸いなことにアメリカ海軍の追跡などもなく日本本土への帰還を果たすこととなった。
しかし、彼のストーリーはこれで終わらなかった。敗戦後の1962年4月のこと、藤田金属という会社を経営していた藤田のもとに一本の電話が鳴る。その内容は、当時の官房長官であった大平正芳との至急の会談を持ちかけるものであったという。
指定された高級料亭で、藤田が大平官房長官から切り出された話とは、アメリカが藤田の身元を探していたこと、外務省を通じて藤田の身元を伝えたこと、そして日本政府は藤田がどんな目にあっても守ることはできないというものであった。藤田は、ついにアメリカが報復に来たと考えた。
その後、アメリカから正式に米国へ呼ばれることとなった藤田であったが、戦犯として裁かれることを覚悟し、腹を切ることも考えて自決用の日本刀をも持参し、かつて自身が空爆をしたオレゴン州ブルッキングスへ向かうこととなった。
ところが、彼を待っていたのは大歓声の市民たちの姿であった。実は、藤田が呼ばれたのは「アメリカ開国以来、初めて本土を爆撃した勇気を称える」人物として、日米の友好と平和親善のために招待されたということだったのだ。賛同した市民からの温かい歓迎を受けて、彼は持参した日本刀を平和の誓いとして同市へ寄贈したという。
のちに彼は、自身の会社が倒産してなお工場で懸命に働き、その貯金でブルッキングスの高校生たちを日本へ招待することへも尽力、それによってレーガン大統領からの賛辞も受けることとなり、感謝状と合衆国国旗が贈られた。彼が最初に訪れた5月25日は、今も現地で「藤田信雄デー」として祝われているという。
【参考記事・文献】
米国本土を爆撃した唯一の日本兵とは。そしてレーガン大統領からホワイトハウスに掲揚されていた星条旗を寄贈されたのは何故?
https://x.gd/szllb
米本土を唯一空襲した日本兵がレーガン大統領から讃辞受けた訳
https://www.news-postseven.com/archives/20190812_1427169.html?DETAIL
米本土を爆撃した世界唯一の日本人兵を知っているか
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64855
【戦後70年特集】郷土の先人:世界で唯一アメリカ本土を爆撃した日本人「藤田信雄さん」を紹介します
https://www.city.bungotakada.oita.jp/soshiki/4/2046.html
【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用