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誤った記述が放置されままに?!「稲葉小僧」が義賊として広まった理由

稲葉小僧は、江戸時代に実在した窃盗犯である。日本で初めて指名手配書が書かれた盗賊、日本座衛門に次いで”義賊第二号”の座を占める人物であると言われている。

出生などの詳しい事についてはハッキリとしていないが、定説によると稲葉小僧は、山城国(現在の京都府)淀城主である稲葉丹波守正諶(まさのぶ)の家臣の子であった。

子どものころから手癖が悪く、頻繁に盗みを働いたために勘当されてついに盗賊となったと言われている。稲葉小僧という呼び名は、このことに由来して盗賊仲間から呼ばれ始めたという。

稲葉小僧の実績はというと、2年間で盗み出した金額が金200両未満、現在の金額で言うと300万円に達するか否かの程度であると言われており、かの鼠小僧に比べると15分の1程度に過ぎなかったと言われている。そして1785年、谷中(やなか)で取り押さえられたことで10月22日に獄門となり、この時21歳。

ところが、この稲葉小僧は日本座衛門のように誤った形でその後伝わっていくことになっていった様相が見られている。その原因を作ったのは、江戸時代の読本作者として知られる曲亭(滝沢)馬琴であったと言われている。

馬琴の著『曲亭雑記』によると、稲葉小僧は勤番侍に対して「おれは人を傷つけず、また、強盗、強姦をしたこともなく、人の道にはそむいたが、これまでにたびたび貧乏人にめぐみ、救っている」と言い放ったという。この記述によって、稲葉小僧は、義賊というイメージが広まっていったと考えられている。

ところが、馬琴による記述は明らかに誤っていることが確認されており、そもそも10月22日に処刑されたのは稲葉小僧ではなく、同じく江戸時代の窃盗犯として知られる田舎小僧が処刑された日であるという。稲葉小僧の名前が「新助」であるとの記載も見られているが、これすらも田舎小僧新助(新介)の名前と混同されている(稲葉小僧と田舎小僧が同一人物であったとする説もあるが定かではない)。

また、彼の最期についても異なっており、自身番に身柄を拘束され奉行所へ向かう途中に不忍池へ差し掛かった際、腹を壊したと言って便所に入る許可をもらった直後、茶店の便所から逃走し池へ入水しそのまま行方不明となってしまった。その後、稲葉小僧は上州まで逃げたものの、コレラ(あるいは赤痢)にかかってついには死亡したということが、のちに捕まった盗賊仲間の白状によって判明。

馬琴が編著者をつとめた『兎園小説余禄』において、稲葉小僧の逸話は上記のように改められることになった。ところが、『曲亭雑記』における記載については誤記であることを何一つ指摘していないため、誤った内容がそのまま広まる形となってしまった。この誤記は、後年の書籍や事典においても採用された。

稲葉小僧は、一作家の誤記の自己訂正が明確に説かれないまま、誤解とフィクションの虚像が広まってしまった存在である。これが当人にとって喜べるものであるか否かについてはわからないが、当時の文壇の最高権威者とも言われている馬琴ですらハッキリとした撤回を行なわなかったということについては、不都合な事実に対する抹消や隠蔽といった権威の悪しき体質を浮き彫りにする結果をもたらしたことは確かだろう。

【参考記事・文献】
八剣浩太郎『奇伝江戸人物誌』

鼠小僧次郎吉をはじめ江戸時代の義賊たちが教えるものと現代の日本
https://ameblo.jp/satoyamatabibito/entry-12531460226.html

【アトラスラジオ関連動画】

【文 ナオキ・コムロ】

画像 「稲葉小僧二郎吉 実ハ泉小治郎新衡」歌川国貞 パブリックドメイン