いまや双子のタレント・芸能人という存在は、珍しいものではなくなり、互いに同業で活躍するケースもあれば、一方のみが芸能界というケースまで様々である。
かつて、日本中から愛された双子として思い起こされるのは「金さん・銀さん」だろう。100歳を迎えた双子ということで注目されたことでCMに出演、その後多くのメディアや番組で取り上げられるなどその姿に多くの人々が微笑ましさと勇気をもらったものだ。
しかし、金さん銀さんの幼少期は、双子というものが不吉な存在として見られていたことから、表で一緒に出歩くことを避けて学校も入れ替わりで通っていたという。
日本において、双子が不吉で忌避するものであるという習慣は、数十年前まで見られていたと言われている。
江戸時代には、双子を「忌み子」と呼び、そう見なされる習慣がすでに定着していたと見られており、『柳営婦女伝系』によると徳川家康の次男である結城秀康は、双子(弟はすぐに亡くなる)として誕生したのだが、家康から嫌われ3歳になるまで対面が許されなかったという。また、彼を出産した於万の方は「畜生腹」と呼ばれて冷遇されたと言われているが、これは多頭産みする動物(畜生)と同等である意味の蔑称であった。
また、双子には、一卵性と二卵性があり、特に二卵性は性別の異なる双子であるケースもあることはご存じだろう。この男女の双子については、心中した男女の生まれ変わりだと信じられていたこともあり、特に忌み嫌われていたと言われている。
こうしたことから、双子を出産した際には一方を里子に出すか、時には産婆の手で一方が殺されるということも珍しくは無かったという。また、男女の双子の場合は、家督や労働力という面から女児が間引かれることが圧倒的に多かったと言われている。
「畜生腹」の迷信は、戦後も続いていた地域があったとされ、一方を殺したために警察沙汰になったということもあったという。また、それに関連して「黄身が二つある卵を食べてはいけない」という俗信もあったという。
このような、双子が不吉であるとする俗信がいつ頃形成されたかについては定かではないが、後のヤマトタケルである小碓尊(オウスノミコ)は大碓尊(オオウスノミコ)という双子の兄がいたとされているが、その誕生の際には第12代景行天皇が叫び声をあげたということが日本書紀に記されているというから、少なくとも編纂された時代にはすでに双子が忌み子と見なされていたのではないかとも言われている。
なお、このような双子(あるいは多胎児)を避ける俗信というのは、世界各地に分布するものである。西アフリカのコンコンバ族は双子の誕生を悪霊や呪いの仕業であると考え、オセアニアのサモアでは「男女の双子は腹の中で近親相姦を犯す」とまで疑われていたという。
また、西洋でも王権時代には権力や相続などの問題から双子・多胎児は厄介な存在として一人を残して殺害あるいは一生幽閉していたいう。バスチーユ監獄に幽閉されたと言われる謎の囚人「鉄仮面」が、ルイ14世の双子であるという説が唱えられていたのもこうした習慣に絡んだものだ。
こうした双子の俗信は、庶民にとって多く子供を産んだことによる経済的負担の多さに加え、分娩時の母体への肉体的負担が通常よりも大きいという事情が、不幸を招く存在といった発想に至った経過があるのかもしれない。
【参考記事・文献】
多胎児は何故世界中で忌み嫌われたのか?不吉の象徴って本当?歴史を交えて考察
https://www.savag.net/multiple-births/#index_id2
【日本人の迷信】男女の双子を「不吉」と忌み嫌ったワケ
https://yukashikisekai.com/?p=130144
忌み子の意味と特徴は?双子が忌み子として扱われた歴史背景も
https://pouchs.jp/marriage/e04lT
【文 ZENMAI】
Aristal BransonによるPixabayからの画像