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戦後を代表する歌手「島倉千代子」と昭和の歌姫とのライバル伝説

代表曲『人生いろいろ』で知られる日本の演歌・歌謡曲歌手といえば島倉千代子。億単位に及ぶ多額の借金を背負うなど、波乱万丈の人生を歩んだ彼女であるがそれに負けじと第一線で活躍し続け、紅白歌合戦では30回という連続出場(通算では35回)を成し遂げるなど、まさに人生いろいろを体現した人生を送った人物である。

島倉が歌手を目指したきっかけは9歳の頃。彼女は歌唱力の高い姉(敏子)がおり、競い合うように歌の練習をしていたという。しかし、その姉は小児麻痺を患っていたために歌手になることは叶なわず、そこで姉のために自分が歌手になろうと決意、姉から歌唱を学ぶようになった。

1955年、16歳の頃に本名の島倉千代子でデビューをした彼女であるが、実はそれよりも前にすでにデビューはしていた。4年前の12歳の時、彼女が歌唱を担当した童謡「お山のお猿」がリリース、これが彼女の事実上のデビュー曲となっている。ところが、この時レコード会社のミスによって名前が「戸倉千代子」と誤植されてしまった。そのため、本名名義でのデビューは彼女にとってはある意味再デビューであった。

そんな彼女は、昭和の歌姫と称された美空ひばりとライバル関係にあったとも言われている。

本名でデビューした島倉が当時16歳だった時、ひばりはわずか1歳差である17歳であった。互いに認め合っていたライバルであったと言われているが、2人のタイプはまるで異なっていた。




ひばりの逸話として次のようなものがある。ある時ステージショーを開催していた頃に「イントロと歌の間にノイズがある」と彼女からスタッフへクレームが入った。音響スタッフが何度チェックしてもそのようなノイズは確認できなかったのだが、数日経ってその原因がスタジオブースのドアノブのほんのわずかな音であったことが判明、その後取り直したところ「ノイズが取れた、歌いやすかった」と笑顔で答えたという。

一方、島倉はとにかく譜面に書き込みを入れることで知られていた。強弱のみならず多くの徹底した書き込みによってその曲を「自分のもの」にすることに努め、彼女が亡くなる3日前にレコーディングが行なわれた最後のシングル『からたちの小径』の譜面も、彼女の書き込みで真っ赤になっていたほどであった。

正反対ながらも歌に対する強い情熱を抱いていた両者は、のちに島倉のパーティにひばりが乱入したことで有効な関係になったと言われている。なお、島倉のデビュー曲『この世の花』の作曲は、ひばりの『リンゴの唄』の作曲者と同じ万城目正(ばんじょうめただし)である。両者の因縁めいた関係は、すでにデビュー当時から形成されていたのかもしれない。

【参考記事・文献】
島倉千代子…姉の自殺の背景には何があったのか?!
https://gossip-history.com/g01708/
美空ひばりさんは「聞」 島倉千代子さんは「書」 戦後歌謡の女王2人の秘蔵エピソード
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/204637#goog_rewarded
戸倉千代子(島倉千代子)の幻の音源を復刻!
https://blog.goo.ne.jp/musicgrid2009/e/f9b611858f1525d3b7f6364cd78578b7
島倉千代子
https://dic.pixiv.net/a/%E5%B3%B6%E5%80%89%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%AD%90

【アトラスラジオ関連動画】

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用