事件

「松下幸之助」のビジネス武勇伝、そして水戸黄門との関係とは

松下幸之助といえば、松下電器(現パナソニック)を一代で築き上げた「経営の神様」の異名を持つ人物。晩年には松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも尽力し、また自著『道をひらく』は1968年に発行されて以降、現在もなお国内ビジネス書のベストセラーランキングに登場し続けるロングセラーとなっている。

彼は、その異名に違わぬ数々の伝説と逸話を残している。

1929年、この年に起こった世界大恐慌により、松下電器は大量の在庫を抱えてしまった。通常であれば、工場に勤務する従業員のリストラを検討しなければならないところであるが、彼は工場を半日勤務として一人も解雇することなく、さらには日給も全額支払い続け、そしてこの危機を乗り越えることができたという。

日本初となる試みも多く行なっており、例えば、現在当たり前にもなっている週休二日制は、1980年ごろに多くの企業が導入する中でおよそ15年先立って松下電器が導入していたという。彼によれば「1日は休養のため、もう1日は教養のために使うこと」を目的とした導入であったと言われている。

また、遡って1927年、「ナショナルランプ」という自転車ランプの発売にあたり、なんと1万個を無料配布するという宣伝を行なった。当時の日本において無料配布というのは考えても見なかった戦略であった。

しかし問題は、ランプには1つにつき乾電池1本が必要となっていたことである。なんと松下は、仕入れ先から乾電池1万個を「無料で下さい」と願い出た。




流石に仕入れ先の社長は荒唐無稽だとして応じようとしなかったが、松下は「無料配布で多くの人に知ってもらえれば、その後必ず売れます」「年内に20万個の乾電池を仕入れます」という約束のもとで説得。結果、1000個ほどランプを配るころには既に続々と注文が入り、最終的には年内想定の20万個をはるかに上回る47万個の乾電池が仕入れられた。

こうしたビジネスの伝説をいくつも残している松下であるが、それに絡んだエピソードとして「水戸黄門の名前を世に広めた」のは松下であったと言われている。時代劇ドラマ『水戸黄門』は、1969年から2011年まで放送されていた人気長寿番組であった。

その「水戸黄門」を放送していた放送枠ナショナル劇場(パナソニックドラマシアター)は、松下グループの単独スポンサーであった。

大正時代のある時、大阪四天王寺の前で二股ソケットを販売していた松下のもとにある人物が通りがかった。その男は商品を見るなり必ず売れると確信し、田畑を抵当に資金援助を決意したという。資金によって松下は二股ソケットを大量生産、見事にヒット商品となり事業拡大を可能にしていった。

彼に出資をしたこの人物、名前を三木啓次郎といい、常陸水戸藩の家老三木之次(ゆきつぐ)の子孫だった。之次は、水戸徳川の祖徳川頼房がまだ正室を迎えていなかった時に懐妊した高瀬局(久子)に対して、堕胎を命じたものの密かに出産させた人物。そして、この時に出産した子こそ徳川光圀、のちに水戸黄門となる人物であった。

三木の出資に恩返ししようと考えた松下は、成功してのち、三木家と深い縁のある水戸徳川家の「水戸黄門」をドラマ放送として開始し、世に「水戸黄門」の名を広めることとなったという。

【参考記事・文献】
松下幸之助は何がすごい?すごさや名言生い立ちを解説
https://plus.nbc-consul.co.jp/blog/konosuke-matsushita
水戸黄門の名前を世の中に広めたのは松下幸之助だったってほんと?
https://www.pointia5.com/entry/2022/08/19/110949

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用