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「森進一」代表曲『襟裳岬』、その波乱に満ちた誕生話

画像『襟裳岬[EPレコード 7inch]

日本の代表的歌手の一人である森進一といえば、『港町ブルース』『おふくろさん』『襟裳岬』など数々の名曲が知られている。

彼は楽曲にまつわるエピソードが多く、2006年にNHK紅白歌合戦で「おふくろさん」が歌唱された際、初版にはないフレーズが加えられたことで原曲作詞の川内康範が憤慨したことで、曲の在り方を巡り騒動となった。また1975年にはNHK放送開始50周年の記念式典が行なわれた時には、特別来賓として出席した昭和天皇皇后両陛下を前に『港町ブルース』を披露するも、緊張からか1番と2番の歌詞を一部間違えてしまうといったアクシデントもあった。

そして、1974年に発表された『襟裳岬』にまつわる裏話は非常に濃密である。

この曲は、作詞は岡本おさみ、作曲が吉田拓郎というフォーク全盛期を代表するコンビが手掛けた楽曲だ。累計売上約100万枚を記録し、同年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞の大賞ダブル受賞、さらにこの曲によって紅白歌合戦初の大トリを飾るなど、森の新境地開拓のきっかけを作り上げた傑作である。

そもそもの発端は、当時新人ディレクターであった高橋隆が、所属していたレコード会社の親会社からの独立1周年記念として準備が進められていた際に「森がフォーク畑のアーティストの曲を歌う」という趣旨の企画として提案したものであった。そしてフォーク全盛期の黄金コンビとして知られた岡本・吉田両人に依頼、岡本は北海道の襟裳へ直接足を運んでインスピレーションを得たという。

一方で、この曲は森を励ますために作られたとも言われている。当時の森は、狂信的な女性ファンによる狂言での告訴、それを苦にした母親の自殺、さらにマスコミからの根拠のないバッシングなどにより、引退を考えるほどの苦痛が重なっていた時期であった。

吉田は奇しくも同時期に女性ファンからの強姦被害の虚言で逮捕をされ、同様にマスコミから激しいバッシングを受けていた。そうした、自分と同じ境遇の森のために書いた曲こそが、『襟裳岬』であったという。




吉田による「襟裳岬」デモテープは、非常に速いテンポであったという。これでは森の良さが出ないと考えた高橋は、極端にテンポを落とした伴奏用のカラオケを用意した。だが、このことは両者に伝えていたわけではなかったため、テンポの速いデモテープで練習してきた森がカラオケを聞いた途端「こんなんじゃ歌えない!」と怒り、さらには吉田も驚きでひっくり返ったという。

結果として、見事に完成したはいいがさらに苦難は続く。ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフからの反応は非常に厳しいものであり、シングル盤のB面扱いで話が進められたのである。

しかし、吉田などの思いが強く込められた「襟裳岬」に思い入れを感じていた森が反対を押し切る形で、両A面という扱いでリリースされることとなった。結果として、「襟裳岬」は大ヒットとなったことで、のちに正式にA面曲へ変更されることとなったという。

因みに、「襟裳岬」の有名な一節「襟裳の春は何もない春です」についても一悶着があった。作詞した岡本によれば、現地の襟裳岬を訪れた際にミサキの情景から感じ取った心地の良さ、そして地元民からもてなされた時の「何もないですがお茶でもいかがですか」という温かさからインスピレーションを得たという。

だが、発売当時にはこの「何もない」という歌詞についてえりも町の町民たちが激怒し、渡辺プロダクションや岡本宅へのクレームの電話が相次いという。のちに、「襟裳岬」は襟裳の知名度アップに貢献するほどのヒットになったことで反感は消えたそうだ。

多くの人々の様々なドラマが込められて誕生した名曲、それが『襟裳岬』なのである。

余談だが、1974年紅白歌合戦の大トリを飾った森進一の「襟裳岬」であるが、その直前に歌唱された紅組トリの曲は、なんと島倉千代子による同名異曲「襟裳岬」であった。

【参考記事・文献】
森進一「襟裳岬」 名曲 ヒットの裏の秘話
https://folkharu.com/erimomisaki/
森進一「襟裳岬」<前>思いつきの企画でセールス100万枚超
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/245383
吉田拓郎が森進一に作曲した「襟裳岬」は当初B面扱いだった!
https://koimousagi.com/46495.html
襟裳岬~”何もない春です”と謳われた名曲にまつわる”いろいろ事情あり”な誕生エピソード
https://www.tapthepop.net/imanouta/75337

【文 黒蠍けいすけ】