イギリス出身のロックバンド「クイーン」といえば、世界で最も売れたアーティストの1組としても名高く、1991年に死去したボーカルのフレディ・マーキュリーを筆頭に、日本でもお馴染みのバンドとして広く知られる。
現在でこそ、世界的なロックバンドとして知られるクイーンであるが、デビューして当初は母国においてすらアルバムの売れ行きも悪く音楽誌から酷評されるほど不人気のバンドであった。そんなクイーンが初めて売れたのは、なんと日本だった。
きっかけとなったのは、日本の音楽雑誌『ミュージック・ライフ』(ML)の存在である。日本の代表的な音楽誌であったMLは、当時の洋楽人気はこの雑誌で決まると言われるほどの影響力があった。
1970年代のある時、MLの記者がアメリカでとある人気バンドの取材に赴いたのだが、そのバンドの前座であったのがクイーンであった。記者は、クイーンが日本で受けることを確信し、クイーンを猛プッシュし始め大々的に雑誌で紹介したという。
1975年4月、クイーンは日本ツアーの実施を決定、日本での最初のコンサートは日本武道館で行なわれることとなった。日本で需要があったということを耳にしていたクイーンは、それでもはじめは期待をしていなかったようであるが、いざ空港へ降り立つとそこには多くのファンが押し寄せており、予想外の人気ぶりに度肝を抜いたという。あまりのファンの数によって、裏口から出ることになったほどであった。
クイーンが人気を博した理由の一つは、音楽以上にそのルックスであったと言われている。そのため、当時としては珍しく女性ファンが多く詰めかける状態となり、到着したホテルにも100人以上のファンが押し寄せた。さらに、ライブでは演奏が聞こえないほどの熱狂に包まれ、バリケードを破らないように演奏を中断してまで落ち着くようアナウンスしたほどである。
本国とは比べ物にならないほどの歓迎を受けたクイーンは、以後日本贔屓としても知られるようになった。特にフレディは熱烈であったようで、日本でタクシー数台分の買い物をし、日本庭園を自宅に拵え畳も購入するほどに日本へ入れ込んでいた。2度目の来日以降は、着物を着てのパフォーマンスも繰り出した。
来日後、クイーンは一躍世界的なロックバンドとして人気を博すこととなった。それでも、ブライアン・メイの「日本が僕たちを変えてくれた」と言う言葉にもあるように、日本に特別な思いを持っていたことは間違いない。
余談だが、当初母国ではなく日本で広く知られるようになった例は多い。
ポーランドの作曲家テクラ・バダジェフスカの作曲したピアノ曲「乙女の祈り」も、日本では電話の保留音などでもお馴染みなほどに人気であるが、当初は本国で酷評されており、のちに日本へ来日したポーランド人が発掘したことで逆輸入されることとなった。
この他、『ハリー・ポッター』シリーズのマルフォイ人気も、日本で最初に盛り上がったという例もある。日本の、純粋に受け入れる寛容的な態度が、こうして日本に対して親しみを感じる海外の人々を増やしているのは間違いない。
【参考記事・文献】
なぜ『クイーン』は日本を愛したのか?~『ミュージック・ライフ』元編集長が語るストーリー
https://news.1242.com/article/162872
クイーンが日本語で歌った「手をとりあって」:誕生の軌跡と日本で愛され続ける理由
https://www.udiscovermusic.jp/columns/queen-teo-torriatte
クイーンは日本びいき?日本公演と来日回数は?日本語力は海外の反応は?
https://torukuma.com/queen-japan-tour/#i-2
(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)