桶狭間の戦いは、1650年に起こった織田信長軍と今川義元軍の合戦であり、わずか2000ほどの織田の軍勢が、およそ40000もの兵を誇る今川の本陣を攻撃し、織田が今川を討ち取った戦いとして知られている。
この戦いは、窪地であった田楽狭間に本陣を構えた今川義元に対して、織田信長が今川の陣の後ろの山へ迂回し、そこへ視界を遮るほどの豪雨に紛れながら奇襲攻撃を図ったと言われており、源平合戦の戦いの一つである一ノ谷の戦いにおける「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」と並び、日本二大奇襲とも言われていた。
ところが、近年になってこの戦いは「迂回奇襲」などではなく、「正面強襲」であったという説が強まっている。元々この迂回奇襲説の発端は、安土桃山から江戸初期の儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)の著した『信長記』(通称『甫庵信長記』)の記載によるものだと言われている。
この出典および説は、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』で事実上のお墨付きを与えられたものとなり、以後桶狭間の戦いは織田軍の奇襲であるという説が長らく定説として語られることとなった。ところが、現在この『甫庵信長記』は儒教色と創作性が強いとの指摘がなされ、史料として不適切ではないかと考えられるようになった。
さて、この説を否定する根拠として『甫庵信長記』よりも有力な史料とされたのが、織田信長の旧臣太田牛一の記した『信長公記』だ。戦国から安土桃山にかけて全16冊で書かれており、信長の側近という立場から、数々の聞き取りや年月日までも記している本書は、きわめて信頼性の高い史料とみなされている。
本書の内容は、かつて定説であった迂回強襲説とは異なっており、今川軍が桶狭間山の山頂の本陣を構え、織田軍の動きがほぼ一望できる状態にあったこと、そして織田軍は迂回をせずに正面から今川目掛けて攻撃したことなどが記されているのだ。しかし、今川軍と織田軍はその兵士の数があまりにも差があったことは前述した通りであるが、そのような大差で本当に信長が勝つことは出来たのだろうか。
これについては、そもそもその数自体の信憑性に疑問が持たれている。ある計算では、全人口100万人のうち国が兵士に出せるのはそのうちの2.5%、すなわち25000人であると言われている。このため、今川軍は多く見積もっても25000人の兵の数となり、そこからさらに国元を守る兵を置いたとしても、せいぜい20000人であったと言われている。
一方の織田軍は、尾張の石高が60万石とされているものの当時の織田家が尾張全体を把握できていなかったことも加味し、30万石程度とすると今川のおよそ3分の1、つまり8000人と割り出すことができる。
このことから、兵の数についてはやや誇張がなされているのではないかと考えられている。これについては、実際の人数よりも多い数を吹聴することで相手を委縮させたり、少ない数で言えば大勢を破ったことへ大いに拍がつくといった心理が働いていた可能性も示唆されている。
桶狭間の戦いが、迂回奇襲として受け入れられてきたのは、その結果があまりにも劇的であったために、白昼の正面攻撃など到底考えられないという思い込みに影響していたと言われている。
しかし、それを抜きにしても、突然の驟雨(しゅうう)を含めて今川が信長をまるっきり舐め切っていたこと、今川が酒宴に酔っていたこと、それに対し信長が桶狭間の戦いの前哨戦であえて味方を相手に殺させて油断させ、何より真昼間に強襲を仕掛けるというような戦国の世では考えられなかった戦法を選んだことなど、様々な点で正面攻撃も充分あり得る例が見受られる。
桶狭間の戦いは、戦国の常識を捨てた織田信長の、まさしく革新的な戦法による勝利だった。
【参考記事・文献】
外川淳『戦国史』
井沢元彦『学校では教えてくれない戦国史の授業』
小室直樹『信長野の呪い』
桶狭間の戦いは奇襲ではなかった【戦国史の意外な真実】
https://www.gentosha.jp/article/12093/
「織田信長は奇襲で今川義元を破った」はもう古い…「桶狭間の戦い」の最新研究で論じられていること
https://president.jp/articles/-/64042
(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 歌川豊宣 – "Bishū Okehazama-gassen" 『尾州桶狭間合戦』 (http://morimiya.net/online/ukiyoe-big-files/U896.html), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16989647による