事件

アレクサンドロス大王の母親「オリュンピアス」は毒親だった!?

ペルシア帝国を滅ぼし、東西に渡る大帝国を築き上げた世界史上の英雄の一人として知られるアレクサンドロス大王。わずか32歳という若さで亡くなった彼であるが、世界史を大きく変えたと言われる彼のその偉業は、現在でも広く語り継がれている。

そんな彼の母親は、オリュンピアスというマケドニアの王妃であったが、彼女はアレクサンドロスのために生涯を捧げたとまで言われるほどに親バカであったと言われている。

ギリシアの国エピロスに王族として生まれたオリュンピアスは、マケドニア王フィリッポス2世と結婚しのちにアレクサンドロスの母となった。フィリッポス2世は、7人の妻を娶っていたとされオリュンピアスは4人目の妻であった。彼女は息子であるアレクサンドロスの財産が減ることを恐れていたが、7番目の妻と結婚したことで本格的にその関係に亀裂が走ったと言われている。

この際の結婚の宴で、フィリッポス2世はアレクサンドロスと口論となり、酒に酔った勢いで自分の息子に対して剣を構え斬りつけようとしていた。このことでオリュンピアスとアレクサンドロスは故郷へ帰ることとなったものの、その後フィリッポス側からの提案により関係は一応の修復を見せたかに思われた。

だが、その同年にフィリッポス2世が暗殺されるという事件が発生しており、彼女が黒幕として仕組んだものではないかとも言われている。




彼女のアレクサンドロスへの対応は、過剰なほどであった。アレクサンドロスが王位を継ぐときには、「ゼウスの息子だ」という噂を自ら広めており、息子にはエジプトのファラオになるようそそのかしていたとも言われている。それだけならまだしも、息子の王座を安泰にするため、7番目の妻とその子をも殺害したのである。息子の交友関係にまで口を挟んでおり、時には相手に手紙で恐喝まで行なっていたという。

過剰なまでに息子アレクサンドロスに世話を焼いていた彼女は、それと同時に徐々に政治へと関与していく。アレクサンドロスの遠征中、彼が不在のマケドニアでは重臣が次第に権力を握って横暴になり、息子の脅威となると思った彼女は政治に関与し始めたことで重臣との仲が悪化することとなった。

アレクサンドロスの死後、「最も強い者が帝国を継承せよ」との遺言によって後継者争いが勃発した際、はじめは争いに加わっていなかった彼女であるが、ポリュペルコン側と協力関係となり、対立するカッサンドロス側が立てたフィリッポス3世とその妃、そしてカッサンドロス兄弟と抵抗軍を破ったのだ。しかし、最後にオリュンピアスは捕まってしまい、彼女の犠牲となった人々の遺族たちによって石を投げられ絶命した。

その後カッサンドロスは、アレクサンドロス4世の毒殺、大王の子どもを一人残らず殺害し、自身が王位を継承した。彼がそこまでした理由は、アレクサンドロス大王に対する強烈な憎しみがあったからであると言われている。大王に対して毒親ともとれるほどに献身であったオリュンピアスは、その息子に向けられた憎悪を前に命を落としたのだ。

【参考記事・文献】
アレキサンダー大王の母、オリンピアスの伝記
https://x.gd/fsF8N
オリュンピアス :アレクサンダー大王の母は野心家だった
https://history.sseikatsu.net/olimpias/#index_id4
【オリュンピアス】かなりの親バカだった? 征服王アレクサンドロス大王の母について
https://x.gd/OM8gE

(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 若きアレクサンダー大王をアリストテレスに紹介するオリュンピアス(1733)ウィキペディアより引用