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芥川賞が欲しくてたまらなかった「太宰治」の異様な執着と因縁

『走れメロス』『人間失格』『斜陽』などで有名な小説家太宰治は、ダメ人間の筆頭として描かれることが多い。実際、彼は何度も自殺未遂を図り、幾度となく借金を重ね、薬物にも依存していたほどであったため、あながち間違いとも言えないところである。数々の仰天する逸話が残る太宰治であるが、その中でも有名なのが芥川賞にまつわるものである。

太宰治は、芥川龍之介の大ファンであった。ノートに「芥川龍之介」の名前や似顔絵を描くほどに太宰は芥川が大好きであり、芥川が自殺した際にはショックで引きこもったほどであったという。

1935年に、芥川龍之介の業績を称えた形で「芥川賞」が菊池寛によって創設された。これに太宰治が黙っているわけがなく、彼は芥川賞の受賞に執念を燃やすこととなった。しかし、その願いの空しく審査に残った彼の著書『逆光』が第1回芥川賞として選ばれることはなかった。


審査員であった川端康成によれば、この頃からすでに自殺未遂を繰り返したり、薬に溺れたりといった太宰の実生活に眉をひそめたことが選出しなかった大きな理由であったことがうかがえる。実際の作品と作者を紐づけたこの評価については、今であれば批判も多く寄せられることであろうが、当事者の太宰はそれ以上に憎しみを爆発させていたようであり、落選した年の雑誌では川端康成に対し「刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた」とまで言い放ったほどであった。

彼の芥川賞に対する執着はすさまじいものであり、審査員の一人であった佐藤春夫に対して手紙を送ったほどであった。その手紙は実に長さ4メートルにも及び、「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます」「私を忘れないで下さい・私を見殺しにしないで下さい」といった旨が綴られていた。

この手紙は、2015年に現物が発見されるまで、その実在が疑われていたほどのものであった。その後は芥川賞候補者としての条件である“新人”という枠も得られなくなったことで、結局太宰が芥川賞を受賞することは生涯なかった。

彼が芥川賞に執着したのは、芥川に対する憧れもあるが、何より芥川賞受賞によって得られる栄誉と賞金も絡んでいた。前述したように彼は借金も非常に多く、友人から借りた金を返す催促の手紙を受け取った際、妻の名前を使って待つようお願いしたという。彼の名作『走れメロス』も、自身の借金エピソードが元になったのではないかとまで言われるほどである。彼にとっては、賞金ものどから手が出るほどに欲しがっていたことは想像に難くない。




彼の作品は、彼自身の精神性がそのまま物語に反映されていることも影響していることから、ハマる人はとことんハマり、嫌う人はとことん嫌うほど評価が極端に分かれると言われている。裏返せば、彼の作品は自己しかなく、社会というものが無かったとも言えるだろう。それが、移民となった貧農の日々を描いた石川達三の『蒼氓』(第1回芥川賞受賞)との差であったとも考えられている。

しかしながら、芥川賞の夢がついえたその後の彼は、『津軽』『人間失格』『パンドラの匣』などの多くの名作を生み出している。『女生徒』については、このような作品に出合えることは批評家の偶然の幸運であると、あの川端から高い評価を受けるほどに成長を遂げたのだ。もし彼が芥川賞を受賞していたら、こうした名作が世に放たれることはなかったとも言えるだろう。

因みに、第163回芥川賞候補として劇作家である石原燃(ねん)がノミネートされていたが、なんと太宰治の孫である。惜しくも受賞は逃してしまったが、芥川賞に関する太宰の因縁は、このような形で今でも続いているようにも思えてくる。

太宰の子孫が、いつかその悲願を達成できる日は来るのだろうか。

【参考記事・文献】
太宰治が芥川賞を獲りたかった理由、受賞していたら名作は生まれなかった!?|文豪たちの人生の岐路(第7回)太宰治:
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/76984
太宰治が川端康成に殺害予告!? 芥川賞の黒歴史がスゴイ件
https://lite-ra.com/2014/07/post-242.html

(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用