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暴れん坊将軍の裏の顔…「徳川吉宗」は暗殺で将軍に登り詰めた?!

テレビドラマ『暴れん坊将軍』のモデルとしても知られる第8代将軍徳川吉宗は、綱紀の粛正、質素倹約の励行、享保の改革を行なったことで、江戸幕府の中興の英主とされている。

吉宗は、それまでの将軍とは異なり、御三家から初めて将軍に選ばれた。御三家とは尾張、紀伊、水戸の3藩のことであるが、吉宗は紀州藩の藩主徳川光貞の子として生まれた。吉宗は四男であり、藩主の座にもつけないような立場であったはずだったのだが、身内が次々と亡くなったことで紀伊藩主となり、そして7代将軍家継が亡くなり将軍家の血筋が途絶え、御三家の中から吉宗が将軍として選ばれるに至った。

吉宗の長兄であった徳川綱教(つなのり)は、5代将軍綱吉の娘・鶴姫を正室に迎えており、綱吉が息子を亡くしていたこともあって次期将軍として期待されていた。ところが、1704年に鶴姫が死去、翌年には綱教も病死し、さらには父光貞もこの世を去った。この時、次男が早くに亡くなっていたため、三男の頼職(よりもと)が藩主となるが父の死からわずか1ヶ月後に死去した。長兄である綱教の死からわずか4ヶ月で、吉宗に紀伊藩主の座が転がり込んできたのだ。


とはいえ、御三家には他に尾張と水戸があった。御三家には、尾張、紀伊、水戸というランクのようなものがあり、家督順ともなっていた。つまり、本来であれば筆頭であった尾張、その藩主であった徳川吉通(よしみち)が将軍の候補となっていた。

ところが、この吉通は7代将軍家継が就任した1年後に25歳の若さで死去。3歳になる息子五郎太が藩主の座につくがその直後亡くなった。その後、吉通の異母弟であり当時22歳であった継友が藩主となるが、在位十数年後に死去。こうして、いわゆるライバル相手も次々と亡くなったことで、吉宗はとうとう将軍の座に成り上がったのである。

あまりにも運が良いというように見えるが、その一方でこれら身内・関係者の死の連鎖については、吉宗が身内を暗殺して出世を果たしたのではないかという衝撃的な説がある。現に、健康体であった吉通が饅頭を食べた直後に吐血し絶命するなど、彼らの死に不審な点が多く見られていた。




しかも、「紀伊藩の隠密が尾張藩邸をうろついている」という日記が残っているともいわれている。吉宗は、藩主時代から使っていた御庭番を幕府でも採用していたが、これは直属の諜報部隊であったため、この部隊が身内暗殺のチームであったのではないかとも考えられている。

尾張藩主である徳川宗春は、将軍となった吉宗の政策をことごとく批判したことで知られているが、肉身たちの不審死に対する吉宗暗躍の確信を持っていたことに起因していたのだろうか。また吉宗は、自分の子孫のみが将軍職を継ぐという新たなシステム「御三卿」を作り上げている。

ドラマでは英雄として描かれる吉宗であるが、その心中は独占と野心に満ちていた裏の顔を持ち合わせていたのかもしれない。

【参考記事・文献】
山口敏太郎『日本史の都市伝説』
徳川吉宗は暗殺者?強運者?(将軍までの生い立ち)
https://yotton-coaching.com/2023/02/14/tokugawayosimune/

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(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用